「ロマン」と「ソロバン」の両立を目指す――第15回

千人回峰(対談連載)

2007/10/09 00:00

高橋啓介

インターコム 社長 高橋啓介

 パソコン登場の初期に生まれた独立系ソフトウェアハウスに元気がない。消えた名前もいくつか頭に浮かぶ。そんな状況下で、インターコムの高橋社長は元気だ。1996年からの苦闘の話は今回初めて聞いたが、その当時、高橋さんの苦悩する姿を見た覚えはない。苦境を克服し、先行きに自信を持てるようになったことが、こんな告白につながったのだろう。同社のホームページを見ていると、情報発信力は豊かで、高橋さんの個性が伝わってくる。まだ、50代後半なので、再び大輪の花を咲かせて欲しいものだ。【取材:2007年6月28日、インターコム本社にて】

 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第15回>

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。
 

スクールの講師に請われソフト会社設立に参画

 奥田 高橋さんがコンピュータと関わりを持つようになったのは、何がきっかけだったんですか。

 高橋 最初に就職したのは商事会社でした。その会社で事務の仕事をやっていたときに、オフコンを導入する話が持ち上がり、お前が担当しろと言われて、コンピュータスクールに2年間通わせてもらいました。

 そのスクールを卒業する直前、そこの講師から話があると呼びだされ、ソフトの開発会社作りたいんだが、手伝ってくれないかと言われたんです。

 奥田 優秀な生徒だったんだ……。

 高橋 そのスクールでは私以外にも2人に声をかけており、計4人で立ち上げたのがオートメーション・システム・リサーチ、略してエーエスアール(ASR)でした。

 奥田 ASRの創業メンバーだったわけですね。

 高橋 ええ、会社の登記などは私がやりました。新橋の烏森の一角に構えた事務所は、正真正銘のガレージでした。机は二つだけ、冬はストーブを炊いてもすきま風があちこちから入ってきて、寒かったですよ。

 それに、仕事もきつかった。受託開発の仕事がメインで、たとえばタケダ理研に派遣されていた時は寝袋を持参するほどでした。いつ自宅に帰れるかというより、何時間眠れるかというような生活をしていました。

 ただ、この時代にアンドールシステムサポートの三田輝さん、アスキーの西和彦さん、ソードの椎名堯慶さんなどと知り合えたことは、その後の大きな財産になりましたね。
 

沖電気のif-800に衝撃受ける

 奥田 独立の経緯は?

 高橋 新たに会社を起こしたのは1982年の6月でした。その1-2年前にビジネスショウという事務機の大きな催しが晴海で開催されていて、そこで衝撃を受けたんです。そのことが独立の引き金になった……。

 ビジネスショウの会場でえらく人だかりのしているブースがあるので覗いてみたら、沖電気がif-800というパソコンのデモをしていたんです。ディスプレイ、キーボード、フロッピィデスク2基を持ち、100万円以下で商品化するといっていました。

 奥田 覚えてますよ。ビジネスショウの直前にNEC、富士通、沖電気が記者会見して日本語ワープロを発表したんです。NECは前日、沖と富士通は同じ日で、確か沖が10時から、富士通が11時からで、沖の会見の途中抜け出して富士通側に駆けつけました。この時、沖は日本語ワープロとパソコンを発表したのでしたね。(500号記念記者座談会 パソコン産業の15年を語る77年-82年 93年5月10号)

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