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夫人からプレゼントされた8ビットマイコンが生涯を決めた――第37回

千人回峰(対談連載)

2009/03/23 00:00

襟川陽一

襟川陽一

コーエー ファウンダー 取締役 最高顧問

 1980年代初頭から『信長の野望シリーズ』『三国志シリーズ』『無双シリーズ』など次々に大ヒットを生み出すゲームソフト会社コーエー。海外進出もいち早く、世界各地に開発拠点を持つ。現在はオンラインゲームでも世界に飛躍し、売上高の20%近くを海外が占めるまでに成長している。今回は、創業者である襟川陽一・ファウンダー取締役最高顧問に、事業の原点や経営に対する思いなどをお伺いした。【取材:2009年2月5日、コーエー本社にて】

「お客様が喜んでくださる、面白がってくださる。結局のところ、それがお客様に役に立つことなのだとわかったのです。
そこが私の経営の原点なのだろうと思っています」と語る襟川さん
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第37回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

 奥田 襟川さんと中国へご一緒したのは、1985年ですから、もう24年前ですか。お互い少年時代(笑)で。

 襟川 懐かしいですね。パソ協(現・社団法人コンピュータソフトウェア協会)の使節団のような形で。あれがきっかけで89年に天津に天津光栄を設立しました。設立してちょうど20年が経ったことになります。

 奥田 あの時は錚々たるメンバーで、今もみなさん各方面で活躍されていますね。

 襟川 天津から北京、上海、香港と10日間くらいでしたか。海外に門戸を開放したばかりの中国で、私たちも若かったですし、料理もおいしくて、いろいろ楽しい思い出がありますね。バスの中での奥田さんの詩吟にも感激しました。ちょうど月が出ていて…。

 奥田 いやぁ。ぼくは襟川さんと電車の中で撮った写真が大好きで、お互いさわやかないい顔をしているんです。窓際に茶碗が写っていて…。

 襟川 あっという間ですね。遥か昔の気がします。天津も今はまったく近代化されていますから。
 

父親の会社を再興したのが経営の第一歩

 奥田 過ぎればあっという間ですが、スタート時はずいぶん苦労をされたのでしょう。

 襟川 父親が栃木県の足利で染料薬品の販売会社をやっていまして、私は大学を卒業して、父親の会社の取引先の大阪にあるプラスチックの原料販売の会社に5年ほど、古い言葉で言えば丁稚奉公に行っていたんです。そこで、ある日突然、父から帰ってこいと連絡がありまして、地元に戻ったわけですけど、その2か月後に父の会社が倒産しました。

 奥田 そうなると、残務整理などもやられたわけですか。

 襟川 ええ、1年間は残務整理をして、きちんと会社の清算までしました。そのうちに、祖父や父の代からの得意先の方々の、再興してみてはという声やご支援もあり、28歳の時に光栄を設立しました。設立時の業務はもちろん父と同じ染料薬品の販売です。今考えれば無茶ですね、あんなにがんばった父がだめだったわけですから、門外漢の私がうまくいくわけがない。若気の至りですね。でも性格が明るいのか、難しく考えないのか、苦労とは感じませんでしたね。結局、2年後にゲームソフトのほうへ転業するのですが…。

 奥田 最初にお会いした当時から、苦労の跡がまったく顔に出ていないのですけど。

 襟川 よく言われますね、襟川さん、ぜんぜん苦労した顔してないって。

 奥田 今、お伺いして本当に苦労されたことが初めてわかりました。経営者としてのスタートは事業を引き継がれたこの時というわけですね。

 襟川 そうです。しかし、会社を始めて社長という名刺を持っていても、経営っていったいなんだろうって、まったくわからなかったですね。それで、経営セミナーのようなものを聞きに行ったり、本屋へも行ました。経営の本や、好きな歴史の本を探しに。すると、雑誌のコーナーも目につく。

 当時、創刊されたばかりの『アスキー』や『月刊マイコン』などが並んでいて、手に取ってみるとなかなか面白そうなことが書いてある。コンピュータなんか自分と関係のない世界だと思っていたのですが、何か引かれるものはありましたね。縁といいますか、人との出会いでもそういうことがありますが、物や機械に対してもそういうことがあるのですね。
 

家内にプレゼントされたマイコンで人生が変わった

 奥田 大学時代にコンピュータのプログラミングをするというような経験はあったのですか。

 襟川 いやいや、まったくないです。商学部でしたし、当時は大型コンピュータの時代でしたから、一般にはまだコンピュータは普及していませんでした。ただ漠然とですが、マイコンの時代がきているんだなぁというくらいの感覚はありました。

 奥田 では、コンピュータと出会ったきっかけは何だったのでしょう。

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