「ポスト中国」は中国だ――第67回

千人回峰(対談連載)

2012/05/18 00:00

増田 辰弘

アジアビジネス探索者  増田辰弘

構成・文/小林茂樹

 今年2月、本紙の「悠々人脈」シリーズに登場していただいた増田辰弘さんとの最初の出会いは20年以上前にさかのぼる。私たちBCNは、日・中・韓にまたがる市場こそが未来を切り拓くという仮説を立てて、日本の将来の成長を中国の成長にダブらせてきたが、長年にわたってアジアのビジネスシーンを間近で観察し続け、中国、韓国、台湾はもちろん、タイ、ミャンマー、インドにまでフットワークよく足を延ばす増田さんのお話をうかがって、私たちの仮説に間違いがないことを確信した。【取材:2012年3月16日 東京・千代田区内神田のBCNオフィスにて】

「中国メーカーには、どこに行っても必ず日本人社員がいます。日本のメーカーの最前線にいた技術者が5年も中国にいたら、おそらく同じレベルになってしまうことでしょう」と増田さん
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第67回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

アジア企業の成長とともに

 奥田 増田さんはかつて神奈川県庁にお勤めでしたが、現在はアジアビジネスウオッチャーとしてご活躍中です。本格的にこの世界に入られたきっかけは何だったのでしょうか。

 増田 田中直毅さんが委員長を務めたアジアのものづくりネットワークという神奈川県のプロジェクトに携わったり、川崎市にある「かながわサイエンスパーク(KSP)」の設立に関わったことが、公務員の正規のルートから外れるきっかけでした(笑)。KSPでベンチャーの方々と知り合いになってから、私の脳細胞の動きが少しずつ変わってしまったわけです。

 奥田 いわゆる、役人としての出世ルートから外れたということですか。

 増田 まあ、そういうことですね。結局、役所のメインストリームである人事とか財務といった管理畑に行かなかったわけですから。多くの場合、人事異動は3年ごとにあるのですが、私は工業貿易課に8年、産業政策課には12年もいて、地場産業やベンチャーの仕事にのめり込んでしまったということです。

 当時は、仕事として日本の生産技術をアジアに移転させようとしていたのですが、今のようにアジアの企業が独自展開をして、日本の経営モデルを越えてしまうなどということはまったく予想していませんでした。85年のプラザ合意で、1ドル240円から150円になるというすさまじい円高が進行しましたが、これをきっかけに、日本企業は貿易黒字対策と人件費削減のために主たる生産拠点をタイ、マレーシアに移していきました。それに伴って部品の現地調達も進み、アジアの技術レベルが急速に上がったのです。

 奥田 その頃のアジア企業というのは、どこの国や地域になりますか。

 増田 韓国、台湾、タイ、マレーシアです。そしてそれに続くのが、インドネシア、フィリピンですね。中国はまだそのなかには入ってきていませんでした。

 1992年に鄧小平の南巡講話があり、中国の市場経済化が急速に進むのですが、日本のハイテク企業が本格的に中国に進出するようになったのは97年のアジア通貨危機以後ですね。
 

ますます大きくなる中国市場の存在感

 奥田 ということは、97年あたりを境に、NIES、ASEANから中国に世界の注目が移りはじめたということですね。それ以降の中国とASEANの関係はどのように変わってきましたか。

 増田 かつてASEAN諸国は日本や台湾、韓国の製造業に土地と労働者を貸していればいいという貸間経済的発想だったのですが、このあたりを境に本格的にものづくりに取り組むようになりました。政策面でも主体的な取り組みが打ち出されるようになったわけです。いまでは、すそ野産業の育成はASEAN各国で常識となっています。

 このため、97年以降、中国とASEANは複雑に絡み合うようになります。例えば、ASEANでつくられた部品を使って中国の工場で組み立てる。中国の素材を使ってアジアで生産する。やがて、ASEANの企業が大規模に中国に投資したりする。そして、その逆のパターンも盛んになりました。もっともASEANの企業といっても、その経営者のほとんどは中国系の人です。やはり、華僑のパワーを感じますね。

 また現在では、中国と隣接するベトナム、ミャンマー、ラオスなどとの国境沿いの交流も活発化しています。その一例として進行中なのが、ミャンマー西部のチャウピュー市に石油コンビナートをつくり、そこから中国の昆明までパイプライン、高速道路、高速鉄道を敷設するプロジェクトです。これが完成すれば、中国はマラッカ海峡を通らずに石油を自国に運ぶことが可能になります。

 奥田 中国に注目が集まるということは、相対的にASEANの情報が減るということだと思いますが、その点はどうなのでしょうか。

 増田 おっしゃる通り、ASEANの情報がかつてに比べて減っていることは事実です。ですから、単にASEANにとどまらず、ASEAN域内の欧州会議やASEAN+3(日本・中国・韓国)などを通じてその存在感をアピールしたり、関税撤廃などにより中国に対抗できるマーケットをつくろうとする努力が続けられています。

 奥田 日本製品の消費地・生産地という視点から、アジアの今後の動きについてどうお考えですか。

 増田 ラオス、ミャンマー、カンボジア、バングラデシュあたりは、例えば家電で日本のメーカーの看板を見ることはほとんどありません。

 グローバルでテレビメーカーといえば、ソニー、パナソニック、シャープ、サムスン、LGの5社体制ですが、これらの貧しい国々では値段が高すぎて多くの人に手が届かないのです。主に流通しているのは安価な中国製です。メーカーでいえば、TCL、ハイアール(海爾)、長江電子、ハイセンス(海信)あたりですが、品質はどんどんよくなってきています。

 中国メーカーは国内販売だけで採算がとれていますから、輸出については投げ売りでもいいのです。このあたりは、国内で稼ぐことができず海外にマーケットを求めるしかない、いまの日本のメーカーの状況とは対照的ですね。

 奥田 なぜ、中国製品の品質が向上してきたのでしょうか。

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