将棋の世界に「クリック」の時代がやってきた――第86回

千人回峰(対談連載)

2013/05/31 00:00

橋本 剛

松江工業高等専門学校 情報工学科准教授 橋本剛

構成・文/谷口一

 「満ち足りています」という橋本先生。たどってきた足取りは、数行のプロフィールにはとても収まりきらない。アジアの少数民族に興味をもち、そこの子どもたちと会話を交わしたくて語学を修め、東大大学院の海洋研究所時代には船で南極近海まで行き、留学先の中国・昆明では日本語教師だった女性を伴侶として射止め……。こういったアナログ的な強烈なベクトルが、先端のコンピュータプログラミングという対極のベクトルに効果を与えるのか。とにかくスケールが大きく、そして深い。地方の高等専門学校にはこんな先生がおられることに驚くとともに、畏敬の念を抱いた。 【取材:2012年11月29日 島根県松江工業高等専門学校にて】

「将棋の顧問もしているんですが、昔に比べると、とくに地方のレベルが
上がっています。コンピュータのおかげです」と橋本先生は語る
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第86回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

国籍、技量が違う学生でも、うまくネジを巻けば協調できる

奥田 先生は、中国へ留学されたり、東アジアにずいぶん詳しいとうかがっています。

橋本 そうですね。ここ松江高専でも留学生担当とか、国際交流関係を担当しています。

奥田 留学生が多くやって来るのですか?

橋本 シンガポールには日本の高専に相当するポリテクというのがあって、昨年、そこの学生が二人、コンピュータゲームの勉強をしたいということで、僕のところに学びに来ました。

奥田 松江高専のミスター橋本に学びたいということで、向こうから来たわけですか?

橋本 いや、たまたま僕がゲームをやっているというので、来たのだと思いますよ。彼らは結構楽しんでくれたみたいで、今年は応募がすごく多かったらしく、シンガポールから松江高専に9人が来ました。3か月間の短期ですけど。

奥田 研究は英語で進めるのですか?

橋本 基本は英語です。昨年の二人は中華系だったので、英語と中国語を半々くらいの割合でコミュニケーションしました。今年は中華系じゃない子がいたので、全部英語で通しました。

奥田 それで、ゲームを教える、と。

橋本 ええ。トランプゲームの「大富豪」によく似たゲームが向こうにあるんですけど、去年はうまい具合に、うちの学校に「大富豪」の研究をしたいという学生がいて、それなら一緒にそのゲームをやったらいいかなと思って、シンガポールの二人とうちの学生とでつくらせたんです。囲碁のソフト制作で注目を集めている手法にモンテカルロ法があります。乱数を使ったシミュレーションを何度も行うことによって近似解を求める計算手法なのですが、最近、「大富豪」のソフト制作でも利用し始められていて、それが、すごくうまくいっているんです。うちの学生がAIをつくって、シンガポールの学生はサーバーや外側の部分を担当して、3か月で、一応、ちゃんと動くものができました。

奥田 シンガポールの学生と突然一緒になっても、チームとしてやっていけるのですか?

橋本 うまくネジを巻けば、それなりの能力をもった学生なら大丈夫です。

奥田 私がプロコンに関わりをもち始めたのが2006年です。当時、モンゴルと中国、ベトナムからも学生が参加していて、非常に優秀な成績を上げました。彼らは日本では教えていないアルゴリズムを活用していることを知って、高専の先生に「日本でも教えてください」と進言したのですが……。

橋本 僕はゲーム情報学というのをやっていますが、すごくマイナーな分野です。どの先生も専門に近いことでなければ、なかなか教えられないと思います。僕もゲームに近いところでは教えられますが、少し離れるとむずかしいですね。理想をいえば、あらゆるジャンルの先生がいる大きな学校があって、これをやりたければ、この先生に聞けばいいというのがあればいいと思う。でも、高専って、一つひとつが小さいので、先生の専門に近いところだといいのですけれど、そうじゃないと厳しいと思います。

奥田 そういう事情もあるのですね。
 

パソコンにはまり、将棋にのめりこむ

奥田 中国語も堪能な橋本先生ですが、少しプロフィールをお聞かせいただけますか。42歳ということは1970年、大阪万博の年の生まれですか。ご出身は?

橋本 桂離宮のある京都市西京区の桂です。嵐山とかが近くにあります。

奥田 1970年ということは、ファミコンが現れる前夜……。

橋本 ですね。そのへんの話をちょっとさせてもらうと、ご多分にもれず、ゲームが好きでしたね。子どもの頃はインベーダーゲームの大ブームだったんです。あの頃はゲームセンターは不良が行くところで、先生は行っちゃダメだと言うんですけど、こっそりと。もっとも、まだ小学生だったので、駄菓子屋に置いてあるゲーム機をやりに行っていました。だけど、小遣いもあんまりもっていないんで、人がやっているのをよく見ていました。それで、小学校5年か6年の時にNECのPC-6001が出たんです。それを使うと自分でゲームがつくれるというので、すごく欲しかったですね。

奥田 インベーダーゲームにPC-6001の時代ですか。懐かしいですね。それで、PC-6001との最初の接点はどこだったのでしょうか。

橋本 最初に知ったのは漫画でした。そんなのがあるんだと思って、これはおもしろいなと。それが、近所のスーパーの電気製品コーナーに置いてあったんですよ。勝手に使うのはダメだと、一応、店の人は言うんですけど、わりと見逃してくれて、そこにへばりついて、いつの間にか僕の専用機みたいになっていて、本当に毎日やっていました。ベーシックマガジンという雑誌を毎月買って、それを見てはベーシックを打ち込んでいましたね。中学に入って、PC-6001を買ってもらうまでは毎日、スーパーに通っていました。

奥田 数年間はスーパーのマイマシンに日参ですか。

橋本 そうですね、本当に毎日行ってました。小学生の頃は周りにそういう話ができる友達もいなくて、完全に独学でした。親もパソコンにはぜんぜん関係のない職業なので、遊ぶものだという感じで買ってくれたんですね。もちろん、僕も将来これが仕事になるなんてまったく思ってなくて、ただ、ゲームがつくりたくて……。PC-6001には、円を描く命令とかがなく、サインとかコサインを使うと書いてあったのです。それが何のことかわかんないので本屋へ行って、高校の数学の参考書を立ち読みしたりして、小学生ながら一生懸命、サイン・コサインをやってましたね。

奥田 好きこそものの上手なれですね。

橋本 マシン語とかも、あの頃はもう完璧に読み書きこなしていました。もう忘れてしまいましたけれど。僕は割とはまり症で、そのときは本当にすっぽりとはまってました。でも、中学へ入ってなんとなく将棋を始めたんですけど、これがまた自分にぴったりで、のめりこんでしまって、だんだんパソコンはあまりさわらなくなって、ずっと将棋をやるようになりました。

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