「豊かな世界の創造」に貢献するために IT事業と農業の再生にチャレンジ――第110回(上)

千人回峰(対談連載)

2014/05/08 00:00

浦 聖治

浦 聖治

クオリティ 代表取締役

構成・文/舛本哲郎
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2014年04月28日号 vol.1528掲載

 設立から30年を迎えたクオリティは、クライアント管理を中心としたソフトウェアの開発・販売で知られているが、近年は自然食レストラン、料理教室、農産物流通にも取り組んでいる。では、なぜ“食と農”の事業に取り組むのか。まずは 「社会の根底にある本当のニーズを満たす必要がある」というITと農業再生への思い、そして創業時を振り返りながら今後の展望を聞いた。(本紙主幹・奥田喜久男) 【取材:2014.3.28/東京・千代田区麹町のクオリティ本社にて】

2014.3.28/東京・千代田区麹町のクオリティ本社にて
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第110回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

企業理念から生まれた新規事業とITの両輪で展開

奥田 浦さんに「ものづくりの環」に登場していただくのは今度で二回目。前回(2011年6月27日号)は、主に御社の中国ビジネスの実際についてお聞きしました。今回は、創業30周年をお祝いしようと……。大きな節目を迎えられました。おめでとうございます。

 振り返れば、1984年2月に会社を設立して、ソフトウェアの開発・販売を中心に事業を展開してきました。2010年に設立したグループ会社のクオリティライフは、和歌山県の白浜町を拠点にして「人と大地をすこやかに」をスローガンに、ITを活用して日本人を健康にし、同時に日本の農業を蘇らせることを目指しています。自然食レストランの「たまな食堂」、自然食料理教室の「たべごと教室」、そして食事で健康をつくるための食材の販売を手がけています。食事で健康になろうという人が増えれば、質の高い農産物が見直され、農業が国内で持続可能になっていくという考えです。

奥田 本業ではクオリティソフトを設立されましたよね。

 そうです。クオリティライフをつくるために、その前年にクオリティソフトを設立しました。クオリティからソフトウェア事業を切り出すためです。なぜIT以外の新しい事業に取り組むのかといえば、企業理念として「クオリティは豊かな世界の創造に貢献する企業に成長します」を掲げているから。豊かな世界を実現するためには、「アフリカの飢餓をなくすことに貢献できるような企業になる」ことだと、1996年の10月1日にこの企業理念を打ち出したときから考えていました。ただ、いきなりアフリカを目指すのではなく、まず私たちは足元の「日本の食料自給率を上げる」ことから始めることにしました。それで農業に目を向けたのです。

奥田 理念から生まれた新事業というわけですね。

 もう一つ、理由があります。企業が存続するためには、社会の根底に横たわる本当のニーズを満たす必要があると考えたからです。日本には、自動車や家電など十分に社会ニーズを満たしている産業もありますが、この産業分野は今や供給に需要が追いつかないような状況です。その反面、食料自給率は40%を切って、需要をまったく満たせていません。これは国の視点で見れば大きな国防上の問題です。どうすれば日本の食料自給率を高めることができるのか。農家の方々と話をさせていただいて、問題は流通だということがわかりました。人々は食べるものにはあまりお金を使わず、それが原因で健康を損ね、そして医療や薬に高いお金を使っているのではないか。からだを壊すような食生活を変えることが不可欠です。健康になる食べ物を適正な価格で流通できれば、日本の農業がよみがえる道筋が開けて、自給率向上につながるはずです。
 

起業時の気持ちを確かめるために当時を振り返る

奥田 30年前に遡って、起業にあたっての思いはどのようなものだったのですか。スタートは翻訳の仕事だったとうかがっています。これはパイオニアを辞められた後の話ですね? 米国勤務の経験もあって、翻訳で起業されたということでしょうか。

 パイオニアには約8年務めて、その間に米国勤務も経験しましたが、あてもなく辞めたので、先輩に「ちゃんとメシが食えているのか」と心配してもらいました。そして、その先輩に紹介してもらってサービスマニュアルの翻訳を請け負うことになったのです。その後、別の先輩に千代田区三番町のマイクロシステムズ社を紹介してもらい、最初の社員として入社しました。そのマイクロシステムズがどんどん大きくなってきたものですから、好き勝手にしているわけにもいかないと、83年9月に外へ出たのです。マイクロシステムズには2年半居ました。起業はその後のことです。

奥田 自由にやりたいという気持ちがずっとあったわけですね?

 実際は、いわば「できちゃった会社」でした。起業して富士ゼロックスのオフィス用ワークステーション 「Star」のマニュアルの日本語化と制作をやらせていただきました。「Star」は1981年にXEROX社が発表したWYSIWYG(ウィジウィグ)、つまり入力画面と同じものが出力できることで注目された製品でした。

奥田 ITへの事業展開のきっかけは?

 翻訳事業としてソフトウェアのローカライゼーションもやっていました。アップルの「KeyServer」というMacintoshネットワークライセンス管理ソフトを日本語化したら、「販売しませんか」と持ちかけられて……。2週間ほど考えて、その間にヒアリングをしてみたら、それほど売れる感触は得られなかったけれど、世の中は知的財産を守る方向に向かうという読みがありました。

奥田 翻訳が飛躍のきっかけになったわけですが、翻訳は完全に撤退されたのですね。

 当時の翻訳事業の状況をみていると、将来はとても暗いと感じていました。翻訳のプロセスにUNIXを駆使して同じ単語に同じ訳語、同じ文章に同じ訳文が付くような工夫をし、コンピュータの得意な大学院生と英語学科の学生とかに大活躍してもらって7000ページのコンピュータマニュアルを2か月半で翻訳から版下までを完成させるようなことをやり遂げました。しかし、それでも残った利益はほんのわずか。翻訳という事業に将来はない、と。一方、1993年10月からKeyServerの販売を始めたら、1年ほどで売り上げが1億円規模になりました。そのとき翻訳事業は2億円規模あったのですが、1年で翻訳事業はやめることにしました。96年頃までに、完全に撤退しています。

奥田 農業支援、農業の流通の事業を始めるのは、同じようにIT事業の利益の縮小傾向がみられたからですか?

 かもしれません。ただ、コンピュータソフトの分野に入った段階で翻訳はやめましたが、食と農などの新規事業を始めてもITはしっかり続けます。ITは今後もいろいろな産業でコアとなる基盤技術です。ITの提供側に居続けることによってITでの強さを堅持することは、新しい事業分野でITを活用することに大きな優位性をもたらすと考えます。(つづく)

健康レストランの本領を発揮

 2014年2月8日、和歌山県の情報交流センターBig・Uで「全国ピロール大会講演会」を開いた。環境にも体にもやさしいピロール農法の紹介と普及にも力を入れている。またこの日は今後の日中関係と農業問題の特別講演が行われ、クオリティライフが運営する「たまな食堂」による料理が振る舞われ、懇親会が開かれた。
 

Profile

浦 聖治

(うら きよはる)  1952年、和歌山県生まれ。73年3月、国立和歌山工業高等専門学校電気工学科卒業。同年4月、パイオニア入社。カーステレオ事業部にて生産技術業務に従事。米国勤務。81年2月、同社退職。同年9月、マイクロシステムズ入社。プロダクトマネージャ兼テクニカルライターとしてソフトウェア開発に携わる。83年9月、同社退社。84年2月、クオリティサービス(現クオリティ)を設立、代表取締役に就任。