「戦後の人生は余生」生への感謝で国に尽くす92年――第170回(上)

千人回峰(対談連載)

2016/10/17 00:00

池田 武邦

建築家・実業家 池田武邦

構成・文/大蔵大輔
撮影/長谷川博一

 大村湾に思い入れのある二人の男が長崎県佐世保市のテーマパーク、ハウステンボスをつくった。一人は長崎オランダ村の創業者、神近義邦さん。もう一人は超高層ビルの黎明期を支えた著名な建築家、池田武邦さんだ。ハウステンボスの奇跡のV字復活は誰もが知るところだが、今日の発展の原点は1982年の長崎オランダ村開園時に掲げた「人と自然の共存」という志にある。今回、ハウステンボスで最先端テクノロジの導入を指揮する富田直美 経営顧問&CTOの計らいで、この環境未来都市を設計した池田さんと対談する機会を得た。戦時中、巡洋艦・矢矧(やはぎ)の乗組員として「仲間たちの屍のなかで生きる」世界を経験し、「戦後の人生は余生」と語る池田さんの胸中はいかばかりか。(本紙主幹・奥田喜久男)


2016.8.12/ひばりが丘図書館にて


初めての着任地であり、生涯を通じて関わりを深めることになる長崎県佐世保。
地図を前に、池田さんの口元も思わずほころぶ

 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男

<1000分の第170回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

克明に残る戦争の記憶 三大海戦と原爆を体験

奥田 92年という長い時間、さまざまに動いた時代を生き抜いてこられて、池田さんのなかで変わらないものは何ですか。

池田 ものごとに対する興味でしょうか。長く生きてきても、知らないことばかりです。

奥田 戦後、海軍から建築の世界へ、まったく別の道に進まれたわけですが、変化への対応に柔軟ということでしょうか。

池田 一度死んでいますから、あまり過去にはこだわらない。死ぬことが大前提の特攻に21歳のときに行って、戦争が終わったときには「あとは余生だな」と思いました。

奥田 余生にしては、その後ずいぶん多くのことをやられている(笑)

池田 余生が70年だからね(笑)。余生だと思っているから、欲はない。「生かされた命だからお礼をしなきゃ」という一心でした。

奥田 今の時代、特攻のような死を覚悟する場面はないですね。

池田 「俺は明日死ぬんだ」という状況に置かれることはないですね。僕も、まさか助かるとは思っていなかった。

奥田 池田さんは戦時中、巡洋艦・矢矧に乗船されていました。

池田 マリアナ沖海戦(※1)、レイテ沖海戦(※2)、沖縄海上特攻(※3)と、戦争後期の三大海戦を矢矧の上で経験しました。

奥田 著書のなかに、レイテ沖海戦の後、兵学校の同期を水葬する場面があります。

池田 今でも克明に覚えています。ちょうど尖閣諸島のあたりでした。あのあたりはサンゴ礁に囲まれていて、敵の潜水艦は入ってこられない。日本は戦前にこの海域を調査して知っていたけど、アメリカは知らなかったんですね。だから僕たちにとっては安息地。水葬のとき、棺に重りを入れたんだけど、空気が入っていてなかなか沈まなくて……。別れを惜しんでいるかのようでした。

奥田 広島の原爆も近くで体験されました。

池田 原爆投下のとき、僕は爆心地から30kmほど離れている広島県南西部の大竹にあった海軍潜水学校の教官をしていました。近くに海軍の火薬庫がありましたから、瞬間的にそれが爆発したと思った。ピカッと閃光が走って、しばらくしてズシーンと大きな地響きがしました。

奥田 当時は原爆の存在を知らないわけですから、敵の攻撃とは思いもしない……。

池田 思いませんでしたね。アメリカの攻撃とわかってからは特殊爆弾と呼んでいました。直後に救助のために広島入りしましたが、本当に悲惨な光景だった。遺体が海に流れていくのを船で収容するのですが、腐敗臭がひどくて……。材木やゴミも一緒に流れているんだけれど、どこに遺体があるかは臭いでわかった。あの臭いは今でも忘れられません。
 

武蔵・大和をも翻弄する自然の恐ろしさ

奥田 戦争自体はもちろんですが、自然の脅威との格闘も壮絶だったそうですね。

池田 レイテ沖海戦後に、風速55mの嵐のなかで台湾海峡を航行しました。矢矧の艦橋は水面から15mくらいあったのに、波はそこから見上げるほど大きくて、大戦艦の武蔵や大和でさえ、なすすべもなく翻弄されていた。幼少期から自然に対する敬意は身にしみついていたけれど、改めて恐ろしいと感じましたね。

奥田 その嵐のなかにどのくらいいたのですか。

池田 半日ほどでしょうか。その間、水が入ってくるのをモーターでずっとかき出していた。乗組員が全員フル稼働で、生きるために必死でした。

奥田 そんな嵐のなかでも、軍艦は沈まないんですね。

池田 1935年に演習中の艦隊の半数が台風で大破した事故があって、それ以来、日本の海軍艦船はどんな波にも耐えられるように造船基準が変更になりました。だから、どんな嵐でも沈まない。

奥田 まさに日本海軍の誇りだったわけですね。池田さんは、戦艦大和と運命をともにした坊ノ岬沖海戦で、矢矧の最期の瞬間の空撮写真を自宅の玄関に掲げていらしたと聞きました。矢矧は誇りであり、生きる場であり、しかもその艦には自分もいる。その一心同体の艦が苦しむ姿をなぜ掲げておられたのでしょうか。

池田 あのとき一度死んだんだと思えば、その後の苦労はどうということはない、という思いです。戦後、アメリカの雑誌に掲載してあった写真を入手して、引き伸ばして飾りました。

奥田 撃沈の後、池田さんはどこにおられたんですか。

池田 原油の浮いた海の上です。5時間以上漂いました。4月の海は陸より2か月前の温度だから、一年で一番寒い。「畳のうえで横になって寝たい」と何度も思いました。「凍死っていうのはこういうものか」とも。(つづく)

「戦後の人生は余生」生への感謝で国に尽くす92年――第170回(中)
建築家・実業家 池田武邦

 
※1 1944年6月、マリアナ諸島周辺海域で行われたアメリカ海軍機動部隊との戦い。日本軍は空母3隻と艦載機のほとんどを失い、西太平洋の制空権・制海権を完全に喪失した。

※2 1944年10月、フィリピン周辺海域で行われた連合軍との一連の海戦。日本海軍の艦隊戦力はこの敗北で事実上壊滅した。

※3 1945年4月、連合国軍の沖縄への進行を阻止するために実施した海上特攻作戦。菊水作戦。日本海軍は4月7日の坊ノ岬沖海戦で戦艦大和、軽巡洋艦矢矧を失い、以降、終戦まで水上部隊による攻撃作戦はなかった。
 

「海」の男の手に宿る「生み」の温もり

 御年92歳。海軍のエリート街道を歩んだ池田さんの手には武骨な年輪が刻まれている。終戦後は海の男から一転、建築の世界に身を投じ、超高層ビルを建て、汚染した大村湾には環境未来都市ハウステンボスを設計した。その手には、無から今の日本を再生した「生み」の温もりが宿る。

Profile

池田 武邦

(イケダ タケクニ)
 1924年、静岡県生まれ。40年、海軍兵学校入学。43年に卒業し、大日本帝国海軍軽巡洋艦・矢矧に少尉候補生として着任。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄海上特攻に出撃するが、奇跡的に生還する。46年、東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後、山下寿郎設計事務所(現・山下設計)を経て、67年、日本設計事務所の設立に参加。日本を代表する超高層ビルの建設に従事する。83年、長崎オランダ村、88年、ハウステンボスを設計。93年の会長就任後に池田研究室を立ち上げ、次世代の都市や建築の姿を追求する。