「ワクワクドキドキ」を感じるために新しいアイデアを出し続ける――第210回(上)

千人回峰(対談連載)

2018/06/04 00:00

高橋啓介

高橋啓介

インターコム 代表取締役会長 CEO

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一

週刊BCN 2018年5月28日付 vol.1728掲載

 ある日の会話。「な~んだ。奥田さんは私より年下じゃない。いつもエラそうにしてるもんだから…」と2人で大笑い。高橋さんは1947年生まれ。私は49年の早生まれだから、学年では高橋さんが1年先輩だ。インターコムの創業は82年6月、BCNは81年8月の創業なので、こちらは私のほうがちょっと早い。お互い30代で独立起業し、それぞれ起伏はあったものの35年以上の社歴を刻むことができた。これまで幾度となく話しをした長いつき合いだ。今回あらためて、これまでの足跡とこれからの目指すところについてじっくりと語りあった。(本紙主幹・奥田喜久男)

2018.4.18 /東京都台東区のインターコム本社にて

パッケージから企業向けクラウドサービスへの移行に踏み切る

奥田 『千人回峰』には定点観測的にご登場いただいています。前回が2012年、その前が07年。私からみると、ここ5、6年で事業の舵を大きく切られた印象がありますが、振り返ってみていかがですか。

高橋 今回、このインタビューがあるということで、以前の資料や記事を読み直してみたんです。そうしたら、1995年には売り上げがいまの倍までいっていたんですね。創業してから、まだ13年ですよ。「えっ、こんなにあったんだ」と。だから、当時は実力ではなく、“運の要素”が大きかったのだなとつくづく思いました。

奥田 業界全体の勢いもありました。

高橋 だから、その後はじわじわと下がっていきましたね。いまは、そこから少しずつ上がりつつある状況です。

奥田 その間、事業の中身は変わりましたか。

高橋 とても大きく変わりましたね。パソコンの黎明期は、事業の内容云々というよりは、コンペティターそのものがあまりいなかったわけです。競合がいなければ、出す商品はみんな新しいマーケットに受け入れられます。今でいうブルーオーシャンというやつです。

奥田 ある意味、早い者勝ちの時代でしたね。

高橋 ところが、その後は競合が次々に出てくるわけです。当社の「まいと~く」という通信ソフトはすごい勢いで伸びたのですが、途中でパソコン通信からインターネットに切り替わってきて、無料のブラウザのようなものが出てくると、やっぱり負けちゃいますよね。

奥田 技術の進化とともにビジネスモデルも変化するということですね。

高橋 コンシューマ向け製品は、生の声が聞こえてくるので、開発していてとてもおもしろいけれど、ビジネス的にみるとコストもかかるし、それほど利益はとれません。それが、少し経ってからわかってきました。

奥田 具体的にビジネスの方向性を変えたのはいつですか。

高橋 14年にコンシューマ向けのパッケージ製品をやめました。クラウドのようなサービス型のストックビジネスへの移行ですね。

「着メロ」ビジネスをヒントにしたストックビジネスの萌芽

奥田 パッケージからクラウドサービスへという大きな時代の流れもありますが、高橋さん自身が感じられたこともあるのでしょうか。

高橋 まだコンシューマ向け製品を出している頃のことですが、ある日、携帯電話の着メロをつくる会社を見学に行きました。当時は着メロビジネスというものがあって、1か月100円くらいで何曲でもダウンロードできるんですね。こんな単価の低いものが商売になるのかと思いましたが、件数が桁違いに大きい。そのビジネスをみて、これをパソコンソフトに応用できないかなと思ったんです。

奥田 すごい直感ですね。

高橋 もし、パソコンソフトで毎月100円の利用料をいただけるのならば、ビジネスとして成り立つと思ったんです。月100円であれば、ユーザーには支払っているという意識があまりないでしょうし。でも、当時は100円のソフトなんてありえない。そういう商品は、どこにあるのかという話ですよね。

奥田 そんな安いソフトがあるわけないと。

高橋 そんなとき、偶然、知り合いからある海外のアンチウイルスソフトを紹介されました。とても興味があったので先方の会社まで行ったのですが、彼らはASPモデルで事業展開していました。ASPはクラウドの前身のようなものですが、国内では、そのビジネスモデルで大成功しているというわけです。

 その会社の社長に、こういうビジネスを日本でもやりたいといったら、すぐにOKが出ました。彼らも日本に進出したいタイミングだったようなのです。

奥田 とんとん拍子ですね。

高橋 ところが、担当の部長がすごい条件を吹っかけてきたんですよ。

奥田 どんな条件ですか。

高橋 高額なイニシャルペイメントに利益は折半。サポートも全部やってくれというわけですよ。サポートや利益分配はいいとしても、そんな高額の前渡金なんかとても払えません。そこで、ホテルでガンガン飲んでもらいながら交渉し、説得を重ねて、なんとかそれをチャラにしてもらったんです。

奥田 高橋さんがそういう胃袋外交のネゴシエーションをするとは思わなかった(笑)。それはいつ頃のことですか。

高橋 リリースは02年4月です。正確な値段は忘れましたが、たぶん1本100円とか200円ですね。でも、最初のうちは全然ダメでした。パッケージのアンチウイルスソフトは使われていたのでしょうが、当時はASPからソフトをダウンロードするという感覚が日本のユーザーにありませんでした。それにそういうビジネスモデルも、ほかにあまりなかったんです。

奥田 アイデアはよかったけれど、なかなか日本のユーザーに根づかなかったわけですね。

高橋 ところが、やり始めて2年ほどしたら、一つ大きな案件が入ってきました。ある通信事業者からの話で、月次課金。これはいい商売になると思って続けていたら、最終的には70万ユーザーまで伸びました。

奥田 1ユーザー100円としても、毎月7000万円ずつ入ってくるということですか。

高橋 まあ、おおまかにはそういう感覚ですね。これはいけると思いました。

奥田 いまでも、そのビジネスは続けられているのですか。

高橋 13年にやめました。

奥田 ということは、その事業を始めて10年余りですね。なぜ、やめてしまったんですか。

高橋 大手に真似されてしまったからです。競合も同じようなことをやり始めて、このまま続けても負けると感じましたから。

奥田 続けてコンシューマ向けパッケージも14年には完全に幕引きされたと。

高橋 コンシューマ向けはおもしろいといいましたが、企業向けの製品と異なり、ユーザーが自分の身銭を切ってソフトを使っているじゃないですか。そうするとサポートなどについても、どんどん電話してくるんです。うちの商品に関係ないOSなどについても。だから、コストがかかってしまう。そのあたりのジレンマはありましたね。
(つづく)
 

愛用の腕時計

 22年前に買って以来、一度も故障したことのない丈夫なところが気に入っているとのこと。一回だけオーバーホールしたのは、昨年病気をされたご自身と一緒とか。
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第210回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

高橋啓介

(たかはし けいすけ)
 1947年9月、千葉県生まれ。商事会社を経て、72年、オートメーション・システム・リサーチ設立に参画、NHKの選挙速報システムの開発で通信ソフトの基本技術を習得。82年、インターコムを設立、代表取締役社長に就任。97年、情報化促進貢献で「通商産業大臣賞」を受賞。BCN AWARD通信ソフト部門18年連続最優秀賞受賞。2010年よりスタンダード&プアーズ(S&P)日本SME格付けの最上位「aaa」を8年連続で取得。14年6月、代表取締役会長CEOに就任。昨年6月、同社は創立35周年を迎えた。