苦手な英語をマスターし「木村さんは米国人だから」と言われるまでに――377人目(上)

千人回峰(対談連載)

2025/08/08 08:10

木村礼壮

木村礼壮

ドリームIT研究所 代表取締役CEO

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2025.7.3/東京都千代田区のBCNにて

週刊BCN 2025年8月11日付 vol.2071掲載

【東京・内神田発】中学生の頃、ちょっとしたきっかけで英語が嫌いになってしまった木村さんは、苦手だった英語をマスターしようと一念発起して米国の大学に留学する。その発想そのものが非凡と言えるが、米国で苦労して身につけた語学力やコミュニケーション能力が、ITの最新情報や最先端技術をいち早くキャッチできることにつながった。語学力が全てではないが、そうしたバックボーンがあってはじめて「IT後進国」と評される日本の抱える問題を見通すことができるのだろう。
(本紙主幹・奥田芳恵)

2025.7.3/東京都千代田区のBCNにて

喘息の発作に苦しんだ少年時代

奥田 今回、木村さんと初めてお会いして、とても珍しいお名前だと思ったのですが、このお名前にはどんな由来があるのでしょうか。

木村 礼壮(れいそう)というのですが、たしかに珍しい名前ですね。よく、お寺の息子ではないかと尋ねられるのですが、私の家はまったくお寺とは関係なく、かつて海外で仕事をしていた伯父がつけてくれたものです。

奥田 伯父さまは、どんな思いで名付けられたのでしょうか。

木村 それが、木村の「K」に合うイニシャルを探したというのです。それで、筆記体で書いたとき、きれいに見えるのが「R」で、礼壮と名付けたと聞きました。

奥田 画数とか漢字の意味とかではなく?

木村 はい。「R」がきれいに見えるというのは私にはよく分かりませんが、イニシャルから決めたことは確かなようです。ただ、ユニークな名前ゆえに、検索すると必ずヒットするのは便利ですね(笑)。

奥田 そんな名付け方もあるのですね。ところで、小さな頃はどんなタイプのお子さんだったのでしょうか。

木村 体が弱く、小児喘息の発作をしばしば起こしていました。そのたびに両親は夜中でも病院に連れて行ってくれたのですが、そのせいか、割合甘やかされて育ったようです。

奥田 それはつらかったですね。

木村 小学生の頃は、体育の授業はほとんど休んでいましたが、中学生になると喘息も治まってきて、高校からは普通の生活を送れるようになりました。ただ呼吸器系が弱く、いったん風邪をひくと治るまで2週間くらいかかるんですね。でも、コロナ禍で感染しないよう注意していたら、それ以来、風邪もひかなくなりました。

奥田 やはりマスクやうがいなどは、予防効果があるのでしょうね。ところで、体育の授業を休んでいたということは、運動はあまりすることができなかったのでしょうか。

木村 当時、運動をすると苦しくなるのでやりたくなかったですね。学校も休みがちで、絵を描いたり、粘土で工作したりするのが好きでしたね。あと、理科系の科目が好きでした。

奥田 高校卒業後は、米国の大学に留学されていますね。

木村 英語が苦手だったから、米国に行けば英語がうまくなると思ったんです。

奥田 えっ? それはどういうことですか。
 

論理的に考えて論理的に行動することの大切さ

木村 実は、小学生のときに英語塾に通ったこともあり、英語はけっこう得意でした。ところが、中学校に入って初めてのテストで、全部できたから100点だと思ったら、ピリオドを書き忘れたため、30点くらいになってしまったんです。

奥田 それはずいぶん厳しいですね。

木村 そんなことがあって、好きな理科系の科目は勉強していましたが、英語という教科そのものに不信感を持ってしまい、嫌いになってしまったのです。

 そのため、高校に進んでも英語の成績は悪いままで、自分が行きたいと考えていた大学に合格できそうもない状況にありました。

奥田 それで留学を考えられたと。でも、米国での生活は大変だったのではないでしょうか。

木村 それは、英語が苦手なのにわざわざ米国まで行ったわけですから、毎日が苦しかったですね。

奥田 入学試験に合格するのも大変ですね。

木村 まずサンフランシスコに渡って、1年間英語学校で学んだ後、大学の入試試験を受けました。専攻は経営工学でしたが、理科系だから何とか卒業できたものの、文科系だったらかなり厳しかったと思います。

奥田 卒業後、米国に残るという選択はなかったのですか。

木村 英語は少しできるようになったもののネイティブとは全然レベルが違いますし、食べ物も日本のほうが格段においしいです。だから、ずっと日本に帰りたいと思っていて、実際、卒業したらすぐに日本に戻りました。

奥田 留学したことで、どんなことが得られましたか。

木村 日本人はおおむね同質ですから、あうんの呼吸が通じる社会が形成され、少々曖昧な表現でも相手に理解してもらえます。これに対して米国人は千差万別ですから、全て論理的に説明しないと分かってもらえません。そうしたことを体感したことが、私にとっての大きな学びでした。

奥田 そういう違いに、すぐに対応できましたか。

木村 最初はそれにすら気づかず、日本にいたときと同じようなコミュニケーションをとっていました。相手が私の思いを察してくれるようなことは一切なく、はっきりと結論を先に言わないと誰も話を聞いてくれません。

 そんな経験をしてから、論理的に考えて論理的に行動することが必要であると思うようになったのです。

奥田 それは、その後の木村さんのキャリアに影響を及ぼしましたか。

木村 そうですね。この留学経験は自分にとっての糧となったと思います。仕事をしている中で、たまにちょっと相手と違った発想をすると、「木村さんは米国人だから」とか言われますし(笑)。

奥田 思考のプロセスが米国人っぽくなっているということですか。

木村 そうですね。欧米の最新技術に触れるためには、そういう振る舞いが必要でしたから、そういった思考プロセスを身に付けたことは自分にとってよかったですね。

奥田 大学卒業後、日本に戻られて沖電気工業に入社されるわけですが、最初からIT系の企業で働こうと考えられていたのですか。

木村 いいえ、IT業界に入るという発想はありませんでした。米国から帰ってきて、日本でどうやって就職するのか分からなかったんです。

奥田 国内の大学とは事情が違いますものね。

木村 書店でいろいろ調べていると「留学生のための就職ガイド」という本を見つけました。これは自分にぴったりだと思って、そこに掲載されている会社を片っ端から受けようと考えたのです。社名の五十音順に掲載されていたため、最初に沖電気工業を受けたのですが、そこでいきなり内定が出ました。他社も受けてみようかと思ったのですが、親からは「内定が出たら、その会社に行くのが普通みたいだよ」と言われ、何も分からないまま入社しました。

奥田 木村さんの実力とはいえ、とてもいいタイミングでうまく就職できたのですね。

木村 ITの最新情報や最先端技術は英文文献からしか得られないため、欧米流の読み書きに慣れていたことはとても大きかったですね。(つづく)
 

デュアルディスプレイのノートPC

最近の木村さんのお気に入りは、2024年に購入した2画面を備えたASUS製のノートPC。移動外出時も作業効率がとてもいいとのこと。ARグラスを装着すればそこに画面が映り、寝ころんでも仕事ができる。PC作業による肩こりに悩まされていた木村さんだが、これでその悩みも解消したそうだ。
 


心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
1000分の第377回(上)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

Profile

木村礼壮

(きむら れいそう)
 1956年12月、千葉県流山市出身。82年5月、米サンフランシスコ大学理工学部経営工学科卒業。同年10月、沖電気工業入社。その後、外資系ベンダー、コンサルティングファームなど数社を経て、2009年12月、ドリームIT研究所を設立しCEOに就任。現在、ICT経営パートナーズ協会会長、国土交通省総合政策局EBPM・情報化エキスパート、衆議院事務局CIO補佐官兼最高情報セキュリティアドバイザーも務める。長年研究を重ねてきた企画策定方法論を利用したDX戦略策定に定評がある。