商品やサービスを提供するだけではなく ライフスタイルを提案できる会社になりたい――第297回(下)

千人回峰(対談連載)

2022/01/07 00:00

北條裕子

北條裕子

SouGo 代表取締役社長

構成・文/小林茂樹
撮影/内田容子
2021.11.23/長野県北安曇郡池田町の八寿恵荘にて

週刊BCN 2022年1月10日付 vol.1906掲載

【長野県池田町発】今回の対談相手である北條裕子さんの姓は、「ほうじょう」ではなく「きたじょう」と読む。漢字の字面だけ見ていると、うっかり「ほうじょうさん」と呼びかけてしまいそうになる。でも、もともとは「ほうじょう」だったのだという。つまり北條さんは、鎌倉から信州の山に逃げ込んだ北條氏の末裔であり、敗走する際に名字の読み方を変えたということらしい。ちなみに北條さんの家紋は、三つ鱗(みつうろこ)。まさに北條家に伝わる由緒正しい家紋である。
(本紙主幹・奥田喜久男)

2021.11.23/長野県北安曇郡池田町の八寿恵荘にて

おばあちゃんの名を冠したやさしい癒しの宿

奥田 今日お邪魔した八寿恵荘ですが、宿の名前にはどんな意味が込められているのでしょうか。

北條 八寿恵というのは、父方の祖母の名前です。父の実家がここから数キロ離れた中ノ貝という地域にあって、そこで八寿恵ばあちゃんは有機野菜をつくっていたんです。東京の父に「野菜が収穫できたよ」という連絡が入ると、父は印刷会社のトラックでその野菜を取りに行って、都内の顧客にそれを配ったりしていました。

奥田 お父さまは印刷関係のお客さんにも、自然のよいものを勧めていたと。当時からオーガニックへの意識が高く、健康志向も強かったということですね。

 ところで、この建物はずいぶん新しい感じがしますが、これは裕子さんの代になってから建てられたのですか。

北條 いいえ、この建物も39年前に父が建てたものです。生前、父は、ここをストレスの回避ができる場にしたいと言っていて、印刷部門の社員が利用できるよう、福利厚生目的で建てたものでした。そこに宿泊業の営業許可をとって、一般のお客様が泊まれるようにしまして、2015年に現在の形へリノベーションした、という経緯があります。

奥田 一般客にも自然やオーガニックにふれてもらい、ストレスを取り除いてもらおうということですね。

北條 この八寿恵荘では、いろいろなイベントを開催していますが、アレルギー専門医の協力を得てアトピー性皮膚炎や喘息のお子さん向けの「自然体験教室」を18年間、健康的に美しくなることをコンセプトとした「乳がんサバイバーツアー」を9年間続けています。

 実家のそばには棚田があり、それを借り受けて乳がんサバイバーのお客様に田植えの体験をしてもらったり、そこで獲れたお米を宿で出したりしているんですよ。八寿恵荘は「ピンクリボンのお宿」に加盟しており、乳がん治療後のお客様の身体と心のケアをお手伝いもしています。

奥田 お父さまは、現在の八寿恵荘の姿をご覧になりましたか。

北條 2012年に亡くなったので、残念ながらいまの姿は見ていません。でも、父の「人のお役に立ちたい」という使命感につながるものになったと考えています。

奥田 そして、八寿恵荘は日本初のBIO HOTEL(ビオホテル)の認証を受けたということですが、それは具体的にはどのようなものですか。

北條 滞在客の健康や自然環境に配慮した安心・安全で健やかな安らぎのあるホテルとして、日本ビオホテル協会が認証・格付けを行ったものを指します。ビオホテルというのはヨーロッパ発祥の概念で、欧州中部中心に約90軒のビオホテルがあります。食事や飲み物はもちろん、石けん、シャンプー、タオルなどのリネン類、さらに建材や内装材もできる限り地元長野県産の自然素材であることが求められ、毎年、厳格な認証が行われています。

娘から見た経営者としての父の姿

奥田 印刷会社を創業し、その後、印刷とはまったく無関係とも思えるカミツレの事業も起こしたお父さまはとても先進的な経営者だったのだろうと推測しますが、娘の目から見てどんなお父さまでしたか。

北條 私は短大卒業後、印刷会社の後継者向けの専門学校で学び、3年間他社に勤務した後、父の会社に入ったのですが、とにかくこだわりすぎる人だと思いました。入社当初は、企画の仕事や父のアシスタント的な仕事をしていたのですが、やった仕事をすべて見せないといけなかったのです。自分の思いを必ず形にするまであきらめない頑固な人でしたね。

奥田 創業者は、大なり小なり頑固な部分はありますね。私も創業者ですが…(笑)。

北條 私は一人っ子なのですが、幼い頃は休みのたびに父に連れまわされていました。幼稚園から小学校低学年の頃、父母と一緒に得意先回りをするんです。

奥田 家族で得意先を?

北條 そうです。父は相手のご主人と話し、母はその奥様と話をするので、私はひとりでじっと我慢していなければなりませんでした。あれはイヤでしたね。だから、父は家の中でもずっと「社長」で、中学生くらいになると反抗したこともありました。でも、怖かったですね。

奥田 お父さまは、そういう営業のしかたを考えついたのでしょうね。そして裕子さんは、幼稚園児にして重要顧客の営業サポートを任されていたと(笑)。

北條 でも晩年には、わざわざ社長室に私を呼んで「おれの欠点をあげてくれ」と言ったのです。私は正直に、短気だとか頑固だとか人の話を聞かないとか言ってしまったのですが、そのとき父は「うん、わかった」とだけ答えました。それからしばらくして亡くなったのですが、正直に言い過ぎたかなとあとで思いましたね。

奥田 80歳過ぎてそうした欠点は直せないわけですから、おそらくそれは、娘である裕子さんに対する感謝の念のようなものだったのではないでしょうか。

北條 そう解釈していただけると、何か胸のつかえが下りるような気がします。

奥田 今後の事業展開について教えてください。

北條 いま、取り組もうとしているのがカミツレの酵素風呂です。酵素風呂というのは砂風呂のようなものですが、これまで米ぬかの酵素風呂はあり、これにより大きなデトックス効果が得られました。でも、臭いがきついというデメリットがあったのです。

 そこで、カミツレエキス抽出後の残渣(搾りかす)を乾燥させて粉にしたもので酵素風呂ができないか、テストをしているところなんです。これをきちんとした形にして、八寿恵荘を訪れていただいたお客様の心身をリセットしてお帰りいただくということを近々実現したいと考えています。

奥田 もう少し長いスパンでは、どのようなことを目指されますか。

北條 商品を国内だけでなく海外にも展開し、ライフスタイルを提案できる会社にしたいですね。創業以来、当社は「お客様を通じて世の中のお役に立ちたい」という思いをお伝えしてきましたが、印刷事業からの撤退を機に「Lifeを、笑顔に。」というミッションを新たに掲げました。それを一歩一歩実現していきたいですね。

奥田 自然の中で人間の心と身体を豊かにする北條さんのアイデア、今後の展開をますます期待しています。

こぼれ話

 左手に山並みを見ながら安曇野の道を車は走る。運転手がハンドルを右に切って、山道に入っていく。蛇行しながら高度を上げる。私は思う。「もったいないなぁ。車を降りて歩きたい」。山には匂いがある。程なくして「八寿恵荘」に着く。長野は山の国。どちらを見ても山また山。ここ池田町は、北アルプスを左から右へ、右から左に首を捻って望む贅沢な風景画が楽しめる町である。少し風が吹いてきた。山の冷え込みは早い。さっそく八寿恵荘に入って、北條裕子さんの話を聞き始めた。「“きたじょう”さんとは読みにくいですよね」。歴史に登場する姓であったり、とても珍しい姓名の時には、まず初めにお聞きする。だって、誰もが自分の先祖とかルーツには関心を持つし、生まれ故郷とか育った場所の環境には、少なからず影響を受けているからだ。

 北條さんは東京で生まれ育っているが、お父さまの実家はこの池田町の近くにある山間部だ。会話にはお父様の話題が頻繁に出てきた。印刷会社の創業者としての父親は、頑固で仕事に厳しい人だということが伝わってくる。時には苦笑しながらの話題もあった。お世話になっている得意先への挨拶回りには、家族を引き連れて客先の自宅に上がり込んでの挨拶となる。その場でじっと控えているまだ子どもで一人娘の心境は如何なるものか、おおよそ察しはつく。それでも成人して仕事を継ぐため、印刷の学校に学び、父が社長を務める株式会社相互に入社する。以来、ざっと三十数年間、創業家の一員として働き続けた印刷業に終止符を打つことに決めた。インターネット時代を迎え、活字がデジタルの時代になって印刷業を取り巻く文字文化がアナログからデジタル環境に移行した。この変化はグーテンベルグ以来の文明の誕生である。世界中の印刷会社や出版業が明日の舵取りに苦悶した。裕子さんは父の会社を引き継ぎ、事業を継続した。しかし、このコロナ禍で半期の売上ゼロに直面し、2021年3月に撤退した。

 撤退の判断に苦悶した要素はいくつか透けて見えた。父が創業した会社であること。生まれながらに、会社作りに取り組む父親の背中を見つめて来たこと。社会人になってからは自分の職場として選んだこと。それでも事業を撤退したことに「父は天国で怒っているかもしれませんね」とはにかむ。事業を撤退するとなれば、想像以上の苦労を強いられることだろう。社員の行く末、客先との関係、資金繰りなどなど、考えるだけで、ゾッとする。誤解を恐れずに言おう。倒産のほうが楽なはずである。「社員の人たちや印刷設備、お得意先ともども同業の方に引き継いでもらいました」。客先は化粧品のトップ企業である。手放すことは惜しいと思う。それ以上に、創業一代でよくぞそこまでの客先を得意先にできたものだと、唸った。「父はすべての作業について品質にこだわる人でした。印刷機も製版装置も製本まで自前主義でした」。これを聞いて、なるほどと思った。受けた仕事の守秘義務を貫く環境を整えたわけだ。完璧主義者はいるが、生半可ではない経営者だったのだ。すごい。裕子さんの話を聞きながら、創業者の人物像が浮かんできた。カミツレ研究所の仕事はもともと父親が実家に近い池田町で始めている。40年ほど前になる。もしや、未来のデジタル時代の到来を深いところで感じておられたのかもしれない。今回は父と娘、二人の経営者に話を聞くことができた気がする。
 


心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第297回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

北條裕子

(きたじょう ひろこ)
 1965年、東京都世田谷区生まれ。玉川学園女子短期大学卒業後、印刷の専門学校である日本プリンティングアカデミーに学ぶ。3年間の印刷企画会社勤務を経て、父・北條晴久氏が創業した相互印刷工芸(現SouGo)に入社。2015年、同社代表取締役社長に就任。一般社団法人深川アートパラ代表理事も務める。