入社後に“放置”されていた社員が経営トップにまで上り詰める――第295回(下)

千人回峰(対談連載)

2021/11/26 00:00

石黒 崇

石黒 崇

小島衣料 代表取締役

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2021.10.11/東京都中央区の小島衣料東京事務所にて

週刊BCN 2021年11月29日付 vol.1901掲載

【日本橋箱崎町発】石黒さんが社長を務める小島衣料は、婦人服の重衣料(コート、スーツ、ジャケットなど)の縫製を手がけ、有名ブランドのOEM生産を行っている。オーナーの小島正憲さんがいち早く中国での生産に乗り出し、その後、人件費高騰による「チャイナ・プラスワン」の実務を担ったのが石黒さんだ。中国工場の規模を最盛期の1割近くまで縮小し、他のASEAN諸国に分散した。いずれも簡単なことではなく、先を読む力がなければ成し遂げられない。経営の“襷”はこうしてつながっていく。
(本紙主幹・奥田喜久男)

2021.10.11/東京都中央区の小島衣料東京事務所にて

「社長候補」ではなく「幹部候補」で採用される

奥田 人材紹介会社から資料を送ってもらうことすら拒否しようとした小島衣料に、なぜ石黒さんは入社したのですか。

石黒 結局、送られてきた資料を読んだのですが、それまで私が抱いていた縫製業のイメージが崩れたんですね。

奥田 「きつくて低賃金の家内工業」というイメージとは違っていた、と。

石黒 そうです。小島衣料は1991年に中国の湖北省黄石市に現地法人の工場を設立しているのですが、2002年の時点で5000~6000人の従業員が在籍していました。また、中国人社員に、通常は日本で行うパターンメイキング(型紙の作成)やグレーティング(型紙をさまざまなサイズに展開させること)を教え、生産コストの低減と生産のスピードアップを実現していました。この会社では、先進的な縫製業経営が行われていたのです。

奥田 まだ、中国人社員の人件費が安かった頃ですね。

石黒 当時は、日本のおよそ10分の1ほどでしたよ。

奥田 その頃に石黒さんは「社長募集」に応じたわけですね。

石黒 正確にいえば「社長候補募集」なのですが、面接には20人ほど集まったそうです。そこで「社長候補」として採用されたのは5~6人でした。でも、ここに私は含まれていません。

奥田 えっ、それはどういうことですか。

石黒 「君は社長候補には無理だが、幹部候補としてなら入社させてあげよう」といわれたのです。

奥田 それはずいぶんハッキリした物言いですね。

石黒 でも、最初から社長になるつもりはありませんでしたから「それでいいです」と。

奥田 会社そのものへの魅力は感じていたわけですね。ところで、そのとき入社した「社長候補」の人たちは、その後どうなったのですか。

石黒 3、4年で全員が辞めてしまいました。

 私以外は異業種出身で、みんな経営のプロを目指しているような若く勉強のできるタイプでした。ただ、アパレル業界というのはかなり複雑な業界であるため、業界特有の知識がないとなかなかやっていけないところがあるんです。まして、社長候補ともなるとオーナー社長のすぐそばにいるため、常に厳しい目で評価されるというリスクもあります。私は遠くにいたため、その点では助かりましたね(笑)。

コロナ禍の影響は大きいもののいち早く復活の道筋に

奥田 入社したときの肩書は?

石黒 「マネージャー」です。「自分で事業部名を考えてつけろ」と言われ、「RS事業部マネージャー」となりました。

奥田 RSとは、どういう意味ですか。

石黒 リテールとストアですね。卸を通さず直接小売店に売るというイメージで、そうした仕事を自分なりにやっていたのですが、当初は部下もいなければ上司もいないという状況でした。どこの部署にも属していない“放置プレイ”状態です。このときは転職に失敗したなと思いました。

奥田 しかし、入社時から放置されるって、ちょっとおかしくないですか。

石黒 おかしいです。一人だけでは仕事を進めることはできませんから、どうしたらいいかと社長に直談判し、入社4カ月か5カ月目にようやくある事業部に配属になったのです。当時は、しっかりと組織立った職場環境がまだ確立されていなかったのですね。

 必ずしも楽しい時期ではありませんでしたが、自分に足りない部分を勉強したのもこの頃でした。前職ではボトムス(スカートやパンツなど)を中心に扱っていたため、小島衣料の主力となる重衣料の製品ビジネスについて、店頭を回ってさまざまなリサーチをしたのです。

奥田 そうした曲折を経て、石黒さんは社長に就任されたわけですが、どうして自分がトップになれたと思われますか。

石黒 当たり前のことですが、その要因の一つは仕事の成果を出し続けてきたことだと思います。もう一つの要因を挙げるとすれば、上司が私のことを認めてくれたことですね。

 先ほど、入社4、5カ月目でようやく事業部に配属されたと言いましたが、そのときの事業部長が私の前の社長を務めていました。この方が私の働き方や仕事に対する真摯さを評価してくださり、自身の社長退任前、オーナーに対して「次の社長を任せられるのは石黒しかいません」といってくださったのです。

奥田 なるほど、最初は“放置”でも、その後はずっと見てくれていた方がいたんですね。

 ところで、小島衣料は中国に生産拠点を移したことで業績を向上させたということですが、現在の海外展開はどのようになっていますか。

石黒 当初は中国100%でしたが、その後の賃金の上昇もあり、現在は中国、バングラデシュ、ミャンマー、フィリピンの4カ国で縫製工場を運営しています。

奥田 ミャンマーは軍のクーデターで国内はだいぶ混乱していると聞きますが、工場は稼働しているのですか。

石黒 報道ではどうしてもセンセーショナルな部分のみが取り上げられますが、基本的には平穏で、工場も以前と変わらず稼働しています。他企業の工場もほとんどが操業を続けており、いまのところ撤退する動きは少ないですね。

奥田 コロナ禍の影響はどうでしょうか。

石黒 テレワーク、外出の減少、冠婚葬祭の激減などにより、アパレル業界も大打撃を受けていることはご存じのとおりです。業界の市場規模は9.8兆円ありましたが、コロナ禍により6.5兆円まで落ち込んでしまいました。実はこれは、10年かけて縮小してゆくであろうとコロナ前に推測された数字なのです。

奥田 たった1年で、10年分減らしてしまったと。

石黒 そういうことです。日本のコロナの状況はいまのところ落ち着いていますが、私たちの工場があるASEANはまだかなりひどい状況にあり、楽観はできません。生き残りのために、さらなる現地化や自動化を進めて生産効率の向上や経費節減を図ったり、EC事業者向けの提案をするなどにより、新規顧客の開拓を行っています。

奥田 業績見込みはどうですか。

石黒 20年、21年は大幅に売上高が減少しましたが、22年は増収の見込みで、利益も出す予定です。幸いほぼ無借金経営のため、資金繰りについては心配していません。不確定要素はありますが、当たり前のことを愚直にやっていくだけですね。

奥田 まだまだたいへんな時期ですが、業績の回復とさらなるご健闘を心から期待しております。

こぼれ話

 今、書き出しに悩んでいる。どちらでもよいと言えばよいのだが、文章にも絵面(えづら)があると考えているからだ。漢字はひと文字でその意味合いを醸し出す。だから、記号としての役割はかなり高級であると思っている。ところが、「故郷」という文字で記すと、“こきょう”とも“ふるさと”とも読める。石黒さんと会って、わずかな会話で浮かんだのは「ふるさと」の風景だ。岐阜の街を流れる長良川には三つの橋がかかっている。長良橋、金華橋、忠節橋だ。生まれて初めて渡ったのは長良橋。この橋の名前を思い出すだけでさまざまな記憶が蘇ってくる。当時の橋には山のようなアーチがあった。歩くと吊り橋のように下が透けて見え、路面電車も走っていたので揺れながら、ガタガタと音を立てていた。その気味の悪さは今も記憶に残っている。その当時、金華橋はまだなかったので、長良橋から見るのはいつも忠節橋だった。どんな人が渡っているのだろうか、と空想を膨らましながら歩いた。その中のひとりに小島正憲さんもいたはずだ。石黒崇さんが社長を務める小島衣料の創業者だ。

 石黒さんと『千人回峰』で対談することになって、不思議な巡り合わせを感じた。ふるさとの岐阜市内の企業人との対談も初めてだが、その会社の創業者・小島さんとは10年以上前から面識があり、以前に対談を申し入れていたからだ。その時は都合悪くて次の機会を待っていたら、石黒さんとの出会いがやってきた。「へえー、こんなこともあるんだ」と思いながら、対談の当日を待った。石黒さんは一宮の生まれなので、私の岐阜弁からすると名古屋弁に近いのではないかと思うが、職場が岐阜なので、会話が佳境になるとモロに岐阜弁がでる。「おー、懐かしい」と思いながら、岐阜駅前の筋にある繊維街を思い出した。幼児期に見た賑やかな光景と、静寂の地域に落ちぶれ果て、帰省した折に歩くと時間が止まったように看板が静かにぶら下がっている光景。しかし、今は若者の飲み屋街になって息を吹き返し、元気なエネルギーが筋からまた次の筋に伸び始めている。輝いている“ふるさと”の街並みを見るのは楽しい。

 小島衣料の創業は1952年。近隣から人が集まる丸物百貨店のあった繁華街には、美川憲一さんの柳ヶ瀬ブルースが流れ、「雨の降る夜は 心もぬれる…」の歌詞が全国に流れた。「歌は世につれ 世は歌につれ」という。世の中ばかりではない。小島さんは言い切る。「私は10代の頃の話は絶対にしません」と。高校生の私は柳ヶ瀬の紫煙の漂う喫茶店で珈琲を飲み、枠からはみ出ようと、もがいていた。「人に歴史あり」。年齢を基準に名前を記すと、小島さん、私、石黒さんの順となる。同じような地域で育ったといっても、生まれた場所、時、社会人における道のりは異なり、それが何十年の歳月を経てこうした縁で三つの支流がひと筋の川となって出会い、語らえたことに安堵を覚える。いつの日かお会いしたいな。「小島さん、お元気にお過ごしください」
 
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第295回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

石黒 崇

(いしぐろ たかし)
 1963年、愛知県一宮市生まれ。87年、愛知学院大学商学部卒業後アパレル業界に入り、2002年に小島衣料へ転職。08年、グループ子会社TFF代表取締役社長。12年、グループ3社の代表取締役社長に就任。13年、小島衣料代表取締役社長就任。同年、売上高を過去最高へと導く。