「人に優しくあれ」結局、父と同じような生き方だ――第289回(下)

千人回峰(対談連載)

2021/09/03 00:00

守時 タツミ

【対談連載】音楽家 守時 タツミ

構成・文/高谷治美
撮影/長谷川博一
2021.6.15/守時さんの仕事場にて

週刊BCN 2021年9月6日付 vol.1889掲載

【神奈川県・三浦市発】自然の音と曲が一体になったインストゥルメンタル『MOTTAINAI SOUND』や、女優(南果歩さんや鶴田真由さん)のナレーションと音楽で綴った昔話『おとえほん』などを企画プロデュースしている守時さん。楽曲の中には、2011年の東日本大震災で被災した福島県飯舘村と相馬市にボランティアで行ったときのものもある。4年目からは飯館村から招待されるようになった。地域おこしや街作り企画、神社での奉納コンサート、廃校合併などの校歌編曲etc。彼の楽曲には背景があり、理由がある。それらを知ると、また曲の聴こえ方、受け止め方も違ってくる。守時さんの優しさって、どこからくるのだろうか。話の中で「親父に似てきたと感じる」とあったが、あるときふと見つけた真摯な生き方が、音楽にあらわれたのだろうか。これからの作品がとても楽しみになってきた。帰りがけに、守時さんと近くの三浦海岸を散歩した。爽やかな風が頬をなでた。

兄はエリート、妹も大学教授 僕だけミュージシャン

奥田 守時さんの音楽を聴いていたら、心にしみ入るんですよ。心からピアノを弾いている。そこには距離がないなって。そんな優しさみたいなものはどこからくるの? どんな子どもでしたか?

守時 そうですね、僕は教員の息子なんです。親父は、最初小学校で教えていましたが、途中からは障害児の教育に携わり、定年を過ぎてまでやっていました。かなり厳格な父親だったと思います。

奥田 ご兄弟は?

守時 兄と妹がいまして、3人とも岡山大学教育学部附属の小・中学校でした。小学生の頃からピアノを習っていました。

 兄貴は、去年定年退職したのですけど、パナソニックの研究所で電池まわりの研究をずっと。妹はスロベニアの大学で日本語と日本文化の教授をやっています。で、僕はミュージシャン。親父といつもバトルしていました。

奥田 確かに変わってますね。お兄さんは松下系のバッテリーといったら、エリートですよ。

 さて、守時さんは高校生の頃はどんな音楽が好きでしたか?

守時 僕の世代はやはりビートルズから聴いたのが始まりです。そのあと、ロック、ジャズ・フュージョンを聴いたりしながら、たくさんの偉大なキーボディストに影響を受けました。高校時代からコピーバンドもするようになって。

奥田 もう、バンドしかない! ミュージシャンしかない!と?

守時 はい。大学には行かないで東京へ行くって親父に言ったら、「なにを考えているんだ、東京へ行っても大学は行け。卒業したら好きなことをすればいい」と言われ、学費も出してくれたこともあり、しぶしぶ大学へ行ったんです。工学部だったんですけど、勉強をしながらミュージシャンをやっていました。 

 親父は、「4年で卒業して教員の免許だけは取れ」っていうので、この二つは死守しました。

奥田 従順ですね。そこからプロのコースに入って行くわけですが、どのようなことをやられました?

守時 最初は岡山出身で上京したミュージシャン仲間とバンドをやっていました。その中には元ザ・ブルーハーツの甲本ヒロトもいて5人で。ヒロトとは小学校も中学校も同級生で幼なじみです。2~3年間、一緒に活動をしたのですが、ヒロトはザ・ブルーハーツのようなギターバンドがいい、僕はいろいろなアーティストと音楽をしていきたかったので、そこでいったん別々の道へ。お互いプロの世界へ入っていきました。

奥田 大学までは親の庇護だなんて、恵まれていましたね。その頃は窮屈だと思ったかもしれませんが……。ということは、あまり苦労をしないでここまできちゃったってことですか?

守時 そうかもしれません。本格的にキーボードプレーヤーとしてメジャーアーティストらのコンサートツアーに参加していましたし、その後はレコーディングやアレンジ、プロデュースをこなしてきました。

奥田 仕事がなくて困ったとか、苦労したことは?

守時 まったくなかったですね。

奥田 流れはいいほうなんですね、人生の。

守時 そうですね。なので、40歳過ぎにこれまでの音楽業界を全部断ち切ってナレーションと音楽で綴った昔話『おとえほん』の制作を始めたときは、最初の1~2年はお金を回すのに苦労しました。周りからは反対されていましたから。

 ただ、このとき、ヒロトは「タツミ、えぇのぉ」と賛成してくれて。彼が言ってくれたことは心強かったですね。

せん妄症状が多くなった父に畑のうぐいすの録音を聴かせた

奥田 ところで、厳格だったお父様は今もご健在ですか?

守時 いえ、昨年の6月に他界しました。入退院を繰り返して緩和ケア病棟に入っていたのですが、コロナで面会できず。僕は5~6月のすべてのコンサートが中止や延期になったので、兄と話し合って実家で介護しようと。5月から介護生活が始まったんです。オムツを換え、体を拭いたり、入れ歯を入れたり外したり、痰の吸引など。兄と一緒にやりました。僕は涙腺が弱くなっていて、涙が出ることも何度もありました。

奥田 そうですか、2か月くらい介護をされたんですね。

守時 親父は病院から岡山の実家に戻ってくると、せん妄のような症状になることも多かったです。僕は、もしや? と考え、畑仕事が好きだった親父の畑へ行きました。毎朝、いろいろな鳥の音に混じってうぐいすの音が聴こえるので、録音して聴かせてみたんです。

奥田 いい話ですね。それこそ、景色が見える音楽だ。お父様、嬉しかったでしょうね。

守時 親父は日中、機嫌が悪くなったりしますが、音を聴かせると、少し安らいでくれるんです。なので、自分が仕事で行って、各地で録った音も引っ張り出してきて、「これは北海道斜里の流氷の音なんだ、これは浜辺で録った波の音、これは気比の松原『浜辺の歌』だよ」と、聴いてもらったんです。

 北海道の知床半島のオホーツク海に面して斜里郡に以久科(いくしな)原生花園という場所があります。冬は海を埋め尽くす流氷が眺められるのですが、その音などを聴いてもらったんです。

http://www.mottainai.info/jp/posts/sound/003278.html
ここで『MOTTAINAI SOUND』の斜里の楽曲とその時の『自然の音』両方が聴けます

 最後は、食べ物を食べられなくなり、右手は僕、兄が左手を握りながら安らかに眠っていきました。

奥田 音っていうのは、本当にすごい力がありますね。

守時 音のもつ意味をあらためて感じましたし、音を作る責任感のようなものが増えました。

奥田 お父様が教えてくれたような気がしますね。

守時 本当にそうです、災い転じてではないですけど。

実は親父と一番近いのは兄弟の中では僕だったのでは

守時 父は障害児の教育に専念しましたが、僕は、『おとえほん』とか『MOTTAINAI SOUND』で、なにか人のためということを直接は思っていませんでした。

 ただ、活動をしていくうちに、音楽が傷ついている人や弱い人になにか力になるものなんだな、ということをさまざまな場所へ赴き、出会った人と触れあっていくうちによくわかってきたんです。そう思うと、父に一番似ている仕事をしているのは自分だったような気もします。

奥田 今になって答え合わせできたのですね。若い頃って、自分で自分を見つめなおしたり、振り返ったりはしません。明日しかないんです。

 でも、あるところでふと、父親のこの縦線みたいな縦糸が見えるんですよね。

守時 本当にそう思います。音楽を聴いて、子どもたちがもっとこう優しい気持ちになってくれたら、と思います。とくに子どもの頃にいい音楽に触れる環境を作れば、残虐な事件もなくなるのではないかと。

奥田 真剣にそう思いますか?

守時 そう思います。自分だったらできるんじゃないかな、って。

奥田 お父様と同じだ。

守時 あぁ、そうなのか……。あぁ、そうですね(笑)。

奥田 たぶん、お父様もそっちにスイッチが入って、子どもの教育のほうにいかれたのでしょうね。

守時 そう、それはそうでしょうね。

奥田 『おとえほん』だって、『MOTTAINAI SOUND』だって、想像するところにおもしろさがあるわけで、その想像するっていうのは、人の気持ちも想像することだから、それが転じて、思いやりとか優しさになっていくのでしょうね。音楽はそれに適しています。うん、心にしみてくるね、「守時サウンド」は……。

守時 頑張って続けていきたいと思っています。

こぼれ話

 音楽家・守時タツミ。ご存じですか。大きな自然の中に、あなたはたったひとりで立っています。早朝でも深夜でも構いません。静かな風の流れの“音”を聴きたいときには「耳を澄ます」でしょ。守時サウンドのDVDをデッキに入れてプレイボタンを押す。スピーカーから厳島神社の気配が伝わってきます。守時さんの愛称は“トッキー”だそうです。初対面の人を、70を超えた年齢の私が「トッキー」と愛称で呼ぶのは少し照れるけれど。

 そのトッキーは2019年6月1日、厳島神社の大鳥居を背景にひとり演奏会を開いた。私はその作品を知人からいただき、プレイボタンを押した。思わず「耳を澄ました」。スピーカーから厳島神社の気配が伝わったのだ。息をこらしながら聴くうちに、20歳の秋に厳島神社を旅したことを思い出した。とてもお世話になった先輩が大学を卒業して神職になった先が厳島神社だった。お礼方々、ご自宅にお邪魔した。当時はお酒が大好きで、先輩に勧められるままに杯を干し、ずいぶん深酒をしたように思う。翌朝、ぶらりと厳島を歩いた。神社を巡り、家が立ち並ぶ細い道を歩いた。「静かだな」。島って、こんなに静かなんだ、と思った。海に立つ大鳥居も壮観だった。

 あの時だと思う。自然の佇まいを客観的に感じた最初は…。自分の中では「おやっ!? 変だな、この感じはなんだろう」と戸惑いを感じて、すぐに忘れた。そして50年が過ぎた。トッキーの厳島神社での演奏を聴いて、20歳の時の“変な”感じが蘇った。これだ。時が止まって感じた、あの自然の静けさは…。今では自然の静寂を反芻することができる。体に異変を感じたのは38歳の頃だ。周りの人たちは飲み過ぎですね、と言う。酒飲みであることは自認していたので素直に受け止めて、それ以来、毎週、山に入っている。70代になってからは体力的に低山歩きだ。低い山なので山を登る、とは言い難い。私的には自然の気配の中に身を委ねているつもりだから、お風呂に入るような感覚で“山に入る”と言いたいのだ。

 トッキーは『自然の音』と『曲』が一体になった“MOTTAINAI SOUND”コンサートを催している。日本全国を旅してはソニーの集音器に自然の音を収めている。お気に入りの道具は前編(vol.1888)に掲載したので、ご覧いただきたい。集音器に音を収めることで、さらに集中して音を深く聴く。音の波動がトッキーの体内に宿って、演奏しながら、自然の音が甦る。楽器を奏でる音楽家は自然の再現者だ。私は音のプロではないので、感じたままに記したい。厳島で宿ったあの時の自然の音と、DVDからの音に違和感を感じたのだ。違和感を感じながらも「トッキーなら再現できる」と勝手に確信した。仕事部屋に案内してもらった。ギターの並ぶ後ろの棚の上に、神社のお札がある。そのうちの一つが気になった。「珍しいお札がありますね」「あっ、分かりますか」「奈良県十津川村の……。交通の便が悪かったでしょ」「でも素晴らしかった、です」。次は自然の話と音をもっと聴かせていただこう。
 


心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第289回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

守時 タツミ

(もりとき たつみ)
 岡山県出身。高校卒業後、同郷の仲間らと上京し、バンド活動を始める。大学卒業後は本格的にキーボードプレーヤーとしてメジャーアーティストらのコンサートツアー、レコーディング、アレンジ、プロデュースをこなした。後にベネチア映画祭招待作品『千年旅人』など映画音楽も手がけるようになる。2007年より一変し、「100年後の子どもたちへ」という思いでdecibelを立ち上げ、女優さんのナレーションと音楽で綴った昔話『おとえほん』や、自然の音と曲が一体になったインストゥルメンタル『MOTTAINAI SOUND』の企画プロデュースを手がけ、コンサートでも高い評価を得ている。NHKラジオ深夜便『景色の見える音楽』にレギュラー出演中。