アスキー、インプレスと、長年コンピューター関連の出版事業に携わってきた井芹さんは、常に新しい手法やビジネスモデルを追い求めてきた。現在、インプレスR&Dが展開する電子書籍やプリントオンデマンドによる出版もその一つだ。しかし、井芹さんは「デジタル出版は好きだけど、紙の本がいらないと思ったことは一度もない」という。すべてのメディアの中で、電気がなくても読めるのは紙だけであり、その一点をもって、紙を残していく必要があると。久しぶりにメディアの役割とその本質について考えさせられた。(本紙主幹・奥田喜久男)

2019.3.19/東京都新宿区のインプレスR&Dにて

光工学の世界からコンピューターの世界へ

奥田 井芹さんはアスキーのご出身ですが、どういう経緯で入社されたのですか。

井芹 アルバイトをして、そのまま社員にしてもらったという昔よくあったパターンですね。

奥田 アルバイトをするきっかけは?

井芹 話すと長いのですが、もともと私は光工学、つまり天体望遠鏡とかカメラとか、レンズのついたものが子どもの頃から好きだったんですよ。そういう仕事に就きたいと思って、東海大学の光工学科に進みました。でも、ちゃんと勉強していなかったから、あまり就職先がなかったんです。ただ、SEやプログラマーの仕事は結構あったので、そういう会社を受けて、当初はそこに就職しようと思いました。

奥田 最初はシステム会社に入ったと。

井芹 いいえ。その会社の内定が出て、来月から来てくださいという電報をもらったのですが、それを見た瞬間に、心の底から「行きたくない」という気持ちが込み上げてきたんです。たぶん、生まれて初めて自分の人生を真面目に考えたんでしょうね。こんなことでいいのかと。それで私は就職浪人してしまいました。

奥田 すごい決断ですね。

井芹 決断も何もないです。後先考えずに、そういう気持ちだったから行けないと……。ただ、少しコンピューターの腕に覚えがあったことが幸いしましたね。

奥田 最初のコンピューターとの出会いは?

井芹 大学4年生の頃、研究室にSORDのM223があったんですよ。当時、世界でトップクラスのパソコンです。私の恩師はレンズ設計で有名な草川徹という先生で、コンピューターによるレンズ設計プログラムの草分けの方なんです。そのM223は先生のものだったのですが、誰も使っておらず、私の独り占めでした。

奥田 そこでコンピューターを覚えたと。

井芹 そうです。マニュアルを読んで、完全に独学ですね。ひたすらゲームばかりつくっていました。それが楽しくて、一日中プログラムを組んでいたんです。

奥田 なるほど、そこにアスキーとの接点が出てくるわけですね。

井芹 偶然買ったコンピューター雑誌が、アスキーでした。そこにアルバイト募集と書いてあり、これはいいなと思いすぐに行きました。そうしたら、セーター姿のラフな格好をしている人が応対してくれたので、この人もアルバイトかと思ったら、当時副社長を務めていた塚本(慶一郎)さんでした(笑)。それで「今からできるか」というので「できます」と答えると「じゃ、やろう」と。

奥田 当時の若者たちの雰囲気が伝わってきますね。ところで、このとき光工学のほうは?

井芹 私が就職浪人したので、大学の草川先生が心配してくださって、日本眼鏡専門学校という眼鏡やコンタクトレンズを勉強する学校に研究生として入れてもらったんです。だから、研究生をやりながらアスキーでアルバイトをしていたということですね。

奥田 じゃあ、そのときはアスキーで人生を過ごすという気持ちではなかったのですね。

井芹 まだ眼鏡とかレンズにこだわっていたのですが、だんだんパソコンのほうが面白くなってきました。その眼鏡専門学校にもう一方の恩師がいたのですが、私の様子を見て「おまえは眼鏡屋になるよりコンピューター屋になるべきだ」とおっしゃったんですよ。

奥田 それはすごいアドバイスですね。

井芹 たぶんお見通しだったのでしょう。コンピューターにも詳しい先生だったので、先を見据えて、私がコンピューターのほうにより適性があると感じてアドバイスしてくれたのだと思います。それで徐々に、専門学校からアスキーのほうに軸足を移すようになったんです。

新しいスタイルのパソコン書を編み出す

奥田 アスキーでは、どんな仕事をしていたのですか。

井芹 プログラムを書いたり、原稿を書いたり、人のつくったプログラムをチェックしたり、互換性のチェックとかいろいろですね。

奥田 技術的に相当くわしいものですか。

井芹 私が配属されたのは書籍の編集部ですから、それほどではありませんでした。雑誌のほうは、プログラムリストが載り、アセンブラ、機械語、BASICと言語も入り乱れていて、普通の人が見たら分からないような専門性の高いものでしたが、私が担当していたのはいまでいうパソコン本で、まさにそのはしりの時期につくっていたんです。

奥田 自分が編集した本の中で、これは名著というものはありますか。

井芹 『入門CP/M』ですね。ご存じない方もおられると思うので説明しますと、CP/Mとは初期のOSでWindowsなどの原型です。日本で最初の解説本は『標準CP/Mハンドブック』という翻訳書なのですが、私が配属されて初めての仕事はその本の編集だったんです。それが出たのが1981年で、次に書き下ろしの分かりやすいCP/Mの本が必要だろうということで出した本が『入門CP/M』という2色刷の入門書。これが画期的な本だったんです。

奥田 どのように画期的だったのですか。

井芹 画面そのものを、本に載せたことです。それまでの本は、文章があって、プログラムリストがあって、図表があってという、普通の実用書スタイルでした。それに対して、コンピューターと会話しながら進めるスタイルを初めて導入したのが、この本だったのです。

 例えば、CP/Mのコマンドでいうと、ディレクトリの「dir」と打ち込んだ画面を載せます。画面だから、その下の行には何も書いてないんです。そしてリターンを押すと、次の画面にはディレクトリが並んでいる。つまり、ユーザーがこういうコマンドを入力すると、コンピューターがこう返すという会話型の形になっているのです。

奥田 実際に画面を撮影するのですか。

井芹 画面の形のスペースに文字を印刷することで、画面のように見せました。「dir」のコマンドだけを表示した画面にすると、その下は余白になって無駄になる。だから、かつてはこういうやり方は嫌われていたんです。しかし、その無駄があることが本づくりとして画期的でした。

奥田 その無駄によって、読者の理解を助けたと。

井芹 そうですね。

奥田 編集の師匠のような方はいるのですか。

井芹 それは塚本さんですね。あとは、西(和彦)さんや古川(亨)さんが米国で買ってきた雑誌や書籍を見て、かっこいいなと。日本の出版物とは一線を画していて、とても新鮮でした。それでかなり勉強させてもらいましたね。(つづく)
 

次代の出版モデル プリントオンデマンド(POD)による書籍

 井芹さんが社長を務めるインプレスR&Dのプリントオンデマンド書籍『インターネット白書2019』と、グループ会社で同様に社長を務める近代科学社の新しいブランド「近代科学社Digital」による書籍。ちなみに近代科学社は、大学教科書を中心に出版活動を行う創立60周年の老舗。このジャンルにも、井芹さんのNextPublishingモデルを導入し、活性化を図っている。
 
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第239回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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