美術が与える感動を一人でも多くの方に伝えたい――第233回目(上)

千人回峰(対談連載)

2019/04/26 00:00

岸本員臣

岸本員臣

瀬戸内市立美術館 館長

構成・文/浅井美江
撮影/掛川マサヤ

週刊BCN 2019年4月29日、5月6日付 vol.1774掲載

 ある日、たまたまつけたテレビに釘付けになった。若い木彫家の遺作展だ。展覧会終了まであと2日だという。居ても立ってもいられず、開催されている瀬戸内市立美術館に向かった。展示のすばらしさに感動し、思わず受付の女性に館長の名を尋ねたことが、今回の千人回峰の発端だ。今年で創立9年目という若い美術館だが、斬新ともいえる企画と展示に全国の美術ファンから熱い視線が注がれている。その視線の先におられるのが初代館長の岸本員臣さんである。(本紙主幹・奥田喜久男)

2019.1.24/瀬戸内市立美術館にて

百貨店で目の当たりにした美術の世界の天国と地獄

奥田 こちらの美術館は、市役所の中にあるんですね。

岸本 はい。瀬戸内市役所牛窓庁舎の3・4階に位置しています。庁舎東横に美術館用エレベーターがあって、上がっていただく形になります。

奥田 エレベーターを上がってからの眺めがすばらしいです。目の前が小豆島なんですね。

岸本 ありがとうございます。当館のある牛窓地区は、風光明媚で知られていて「日本のエーゲ海」とも呼ばれているようです。

奥田 瀬戸内市というのは、平成の大合併で生まれた市とうかがいました。

岸本 2004年に邑久郡の邑久町、牛窓町、長船町が合併して誕生しました。

奥田 市が誕生した6年後にこの美術館がオープンし、岸本さんが初代館長に就かれたのですね。

岸本 そうです。新聞記事の公募を見て応募しました。

奥田 おいくつの時ですか。

岸本 60歳でしたね。

奥田 それまではどうされていたのでしょう。

岸本 地元の百貨店である天満屋で、新卒から定年まで勤めておりました。

奥田 女子マラソンで有名な、あの天満屋さんですね。

岸本 そう、その天満屋です。入社して以来37年間、美術畑一筋でした。

奥田 それはすごいキャリアです。美術担当というといわゆる学芸員のような仕事になるのでしょうか。

岸本 もちろん学芸員的な要素は必要なのですが、百貨店ですから、観ていただくだけでなく売らなければなりません。“利”をつくる必要があるわけです。

奥田 そこは学芸員とは大きな違いですね。

岸本 美大出身でもありませんでしたから、絵を含め、美術自体がよく分からない。ましてや売るとなるとどうすればいいのか、というスタートでした。ただ、私が入社した73年は前年から始まった美術ブームの真っ只中でして……。

奥田 そんなブームがあったのですか。

岸本 大阪万博が終わった後です。72年に田中角栄内閣が誕生して、好景気に拍車がかかり、日本で初めて起こった美術ブームでした。医者など高額所得者を中心に、絵が飛ぶように売れました。それで百貨店は美術というものが商売になると気がついたわけです。

奥田 なるほど。で、実際に商売になったのですか?

岸本 なりました。それはもう、すごかったです。入社時、先輩から言われたのが「注文は向こうからやってくる。君はただそれを受ければいい」と。実際、そうでした。

奥田 注文の嵐…。

岸本 とにかく売れました。しかも中には一点が数百万円という高額なものも。当時私の初任給が6万円の時代に、数百万円の絵がかなり売れていきました。

奥田 破格ですね。桁が違う。

岸本 ところが、いいことは続きません。入社して半年後の10月、オイルショックが起きました。トイレットペーパーの買い占めとか、今でも映像が流れることがありますよね。

奥田 覚えています。美術の世界にも影響があったのでしょうね。

岸本 驚くほどのスピードで市場が縮んでいきました。それまで注文の嵐だったのが、今度は返品の嵐になりました。

奥田奥田 返品? 売り切りではなかったんですか。

岸本 当時の商慣習としてお客様からの入金にタイムラグがあったんです。売れた時、伝票だけ計上して、実際の入金は半年とか1年後という時代でした。 

奥田 ああ、それなら返品の嵐になってしまうのも分かります。

岸本 代金をお支払いいただく前に暴落が起こってしまった。仕入れはしているが入金はない。まさに天国から地獄に真っ逆さまでした。

事業の成立に欠かせない業績必達と人材育成

奥田 その後はどうされたんですか。

岸本 何百点という在庫をなんとか10年かけてみんなでさばきました。そうしたら、85年にプラザ合意があって、円高基調がやってきます。やがてバブルに突入。またしてもブームの再来です。

奥田 世の中は浮かれまくっている。そんな中にあって岸本さんは……。

岸本 以前の経験がありますから冷静でした。その頃は部長になっていて、一応権限もありましたから、ちゃんと入金があったものだけ仕入れを通すことを徹底させて。バブルの崩壊後、百貨店の中には数百億円の損金を計上したところもあったようですが、おかげさまで天満屋は大きな損害は受けませんでした。

奥田 お見事ですね。

岸本 ありがとうございます(笑)。私がたまたま苦い経験をしていたことが生きました。人が代わると、以前の経験ってなかなか引き継がれないものですからね。

奥田 なるほど。“利”に関してはそうした経験から学ぶことができた、と。では、美術そのものはどのようにして学ばれたのですか。

岸本 美術に関して私は多くの方の指導を受けましたが、突出して私を鍛えてくれたのは、当時の直属の上司で一回り年長の木口正夫さんという方です。木口さんには、美術に関して、また美術の商いに関して徹底的に仕込んでいただきました。

奥田 木口さんとはどういう方だったんでしょう。

岸本岸本 当時、百貨店の美術業界で豪傑が3人いると噂に聞いていました。伊勢丹さん、西武さん、そして天満屋。木口さんはその豪傑のお一人で天満屋美術部のベースをつくった方です。木口さんの名前を全国にとどろかせることになったのが、「内外洋画秀作展」という天満屋の展示会でした。

奥田 それはいつ頃の話ですか。

岸本 72年です。その当時、三越さんが続けていた「国際形象展」という有名な展覧会があって、それに匹敵するものをつくりたい、と。

奥田 72年といえば美術ブームの頃ですね。

岸本 まさに絶頂期。この展示会で天満屋は6億円を売り上げました。繰り返しますが、私の初任給が6万円の時の6億円です。

奥田 すごい結果を出されましたね。岸本さんはその木口さんにどんなふうに仕込まれたのですか。

岸本 いわゆる「背中を見て学ぶ」でした。例えば夕方5時頃になると一緒に来いと言われてお客様のお宅にうかがう。そのお宅で食事をして、お客様が風呂から出てこられて、夜の9時頃から商談が始まります。深夜12時くらいに商いの話が終わって作品が売れたとすると、そこから木口さんを自宅まで送った後、作品を画廊まで戻してからやっと帰宅。そんな日が10日くらいあった月もありました。今では考えられないかもしれませんが、当時はそういう働き方でした。

奥田 そうして商いの仕方を学ばれた。

岸本 木口さんからは二つの大きなことを学びました。一つは実績を出すこと。企業は利益を出さないと存続していけません。そしてもう一つは人を育てるということ。業績必達と人材育成。事業を成り立たせるには、この二つが必要不可欠です。

奥田 岸本さんは木口さんに育てていただいたわけですね。

岸本 私自身がそうして育てていただいたので、次の世代をきちんと育てなくてはと強く思っていました。おかげさまで私より10歳下の世代、さらにその10歳下の世代も育ってくれて、現在は岡山、福山、広島、米子の4カ所にある天満屋各店にしっかりした美術担当部長がいます。本社を入れると5人ともすばらしい人材です。

奥田 後輩を育成された後、こちらの美術館においでになったわけですね。(つづく)
 

外販時代の岸本さんを支えたカバン

 天満屋の外販時代、デザインが気に入って買ったというカバン。このカバンに、A4サイズの資料をパンパンに詰め込んで外販に行くのが岸本さんのトレードマークだったとか。「汗と涙がしみ込んでいる思い出のカバンです」と、振り返る。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
主幹 奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

岸本員臣

(きしもと かずおみ)
 1949年生まれ。岡山県岡山市出身。73年3月岡山大学法文学部を卒業後、岡山市に本社を置く百貨店「天満屋」に入社して美術部門に配属。以来37年間、美術畑一筋で勤務。退職後、平成の大合併に伴い誕生した瀬戸内市に開館した「瀬戸内市立美術館」の初代館長に就任。従来の絵画や工芸、彫刻などの展示にとどまらず、人形や詩、マンガなど多岐にわたるユニークなテーマの企画展を開催。企画力と発信力を持った美術館の館長として活動している。