石田さんは、30代の頃、労働組合の役員を4年間務めた。このとき、いろいろな考えをもつ組合員をどのようにまとめるか、もの事を決める際、いかにしてみんなの納得を得るかという対峙技術を学んだという。労組の委員長として当時の経営陣と話し合い、ときには対峙するなかで、経営者の思考法を吸収した。その経験はビジネスの現場で、そして経営者に立ち位置を移してから、大いに役立ったという。石田さんが、技術だけでなくコミュニケーションを重視する理由がわかってきた。(本紙主幹・奥田喜久男)

2016.2.24/東京・豊島区の日本ブレーン本社にて
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第159回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

営業するのが嫌いだから、JIETをつくろうと思った

奥田 石田さんが社長を務められたのは何年になりますか?

石田 2008年から14年までの6年ですね。

奥田 6年の任期というのは、長いほうなのですか。

石田 日本の企業は、5年か6年のところが多いので普通です。でも、ようやく会社経営を覚えたら終わりという感じですから、ちょっと短いように思いますね。

奥田 社長になると、会社の風景が変わるものでしょうか。

石田 変わりますね。1999年に東洋エンジニアリング(TEC)から分社して10年目を迎える年の就任ですから、今後どうやって拡大し、どういう手を打とうかと考えつつ、4月に取締役会で正式に社長になったのですが、その5か月後の9月15日にリーマン・ショック。「さあ行くぞ」という攻めの姿勢から、急転直下「どう守るか」という形に転換せざるを得なくなりました。

奥田 大変なときの社長ですね。

石田 でも、分社時に110人ほどでスタートした会社が、いまは関連会社も含めれば1000人ほどの規模となり、14年には東証一部に上場できましたから、会社としてはまあまあよかったのだと思います。

奥田 ところで、石田さんはTEC(東洋エンジニアリング)に技術者として入社されていますが、そこに至るまでにはどんな足あとを残されたのでしょうか。

石田 小さい頃は、丸太から彫刻刀で船を削り出してつくるようなことをしていました。そんなことを延々とやっていましたね。

奥田 どこがおもしろいのですか。

石田 完成するまでやるのがおもしろいんですよ。丸太といっても角材みたいなものですが、やり出したらけっこう止まらない。後はサボテンの温室をつくったりしました。温室でなくてもいいのですが、そういう小屋を設計して木でつくるというのが好きだったんです。それで材料がどのくらい必要かとか計算したりして、まるで材料設計みたいなことを小学校の高学年くらいからやっていました。

奥田 早熟ですね。そういう家庭環境だったのですか。

石田 以前の家業は農業でした。農業機械を収める大きな倉庫に、ノミやカンナ、農具をメンテする工具がいっぱい置いてあったんです。

奥田 その倉庫が、石田さんのものづくり魂を育んだのですね。

工場をまるごと設計してみたい

奥田 石田さんは九州大学に進まれますが、大学では何を勉強されたのですか。

石田 機械工学です。先ほど申し上げたように、小さな頃からものづくりに興味がありました。中学生の頃、進路希望の紙に「アイデアマン」と書いたんです。要するに、今までにない装置とか機械をつくろうと漠然と考えていたんですね。その思いは高校時代も引き継がれ、大学では当然のごとく機械工学を専攻したわけです。

奥田 いよいよ本格的に好きなことを学べるわけですね。

石田 ところが、私が大学に入ったのは69年。70年安保闘争で東大入試が中止になった年です。入学して、1か月間オリエンテーションを受けたら、全学ストライキに入ってしまいました。田舎の高校から出てきて、さあ勉強しようと思ったらいきなりストライキですから。

奥田 そういう時代でしたね。

石田 入学した頃は、機械設計や装置設計をしたいと思っていましたが、大学3年のときに行ったある家電メーカーの工場実習で、気持ちに変化が生じたんです。

奥田 どんな変化だったんですか。

石田 そのメーカーはちょうど新工場を増設する計画を立てており、私は実習で、ワークサンプリングという、どういう作業にどのくらいの時間を使っているか、どのくらいの稼働率かといった調査をやらせてもらっていました。ここでは、現場の作業指図もホストコンピュータで行われていました。

奥田 70年代の初めだと、それは最先端の工場ですね。

石田 ところが、コンピュータの能力は低く、工程ごとに設定が行われているため、熟練の旋盤工は午前中で指図された仕事をこなしてしまう反面、経験の浅い入社1、2年目の旋盤工はふうふういって残業しているわけです。こうした先端を行っている会社でもコンピュータを使いこなす実力はその程度かと思い、「ああもできる、こうもできる」と、アイデアがどんどん湧いてきたのです。それがきっかけで、機械設計や装置設計ではなく、一般産業の工場を丸ごと設計することを目指すようになりました。

奥田 それは、確かに大きな気持ちの変化ですね。

石田 でも、一般産業の工場設計をする会社というのは、実はないのです。建物は大手建設会社、機械はそれぞれの機械メーカー、システムはSIの会社というように分業で、丸ごとというわけにはいかない。それで困ったなと思ったら、エンジニアリング会社というのがあると聞きました。一般産業ではなくプラントが対象ですが、工場全体を設計するならここかなと思ってTECを選んだのです。

奥田 エンジニアリング会社のなかで、TECを選んだ理由は何かあったのですか。

石田 大手三社のなかで、TECには奨学金制度がありました。大学4年の春に面接を受けて合格すれば、修士課程の2年間、奨学金を受けることができ、修了後に入社すれば返済不要という仕組みです。

奥田 そうして優秀な人材を確保するんですね。

石田 ところが、面接を受けるため福岡から上京して知人のところに泊めてもらったのですが、前夜飲みすぎて遅刻してしまいました。遅刻の理由を問われ、しどろもどろに答えたものの、なんとか奨学金を受けることができました。

奥田 酒豪の片鱗ですね(笑)。

石田 その後、修士課程も無事修了し、入社試験を受けるわけですが、このとき「落ちる」というイメージは一切ありませんでした。会社の奨学金を受け、修士号も取得しているのだから、当然入社できるものと思い込んでいたのです。しかし、奨学金を受けていても落ちた人がいたと後で聞き、ちょっとびくっとしましたね。(つづく)

いつも携帯している多色ボールペン

 技術者が図面のチェックをする際に使うもの。青は「消す」、赤は「追加」、黄色のマーカーは「OK」の意を表す。現場を離れてからも「習慣づけられているので手放せない」とのこと。「奥田さん、知ってます?」