富士スピードウェイにきた。初めてのサーキット。ものすごいエンジン音が駆け抜けていく。まさに非日常の世界。メインレース開始までのきらびやかで華やいだ祭りの興奮。山口さんは、この世界でどっぷりと生きてきた。水を得た魚のように、会場を歩きまわり、レース関係者らと短い言葉を投げ合う。そして、レース前のピットまで案内してくれる。このサービス精神の根っこに何があるのか。解き明かしてみたいものだ。(本紙主幹・奥田喜久男  構成・谷口 一  写真・津島隆雄)

2015.8.9/富士スピードウェイにて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第147回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

親の喧嘩がクルマ好きにした

奥田 そもそも山口さんは何屋さんといえばいいんでしょうか。

山口 編集者ですよ。名刺にはインスピレーターなんて書いてもいますけど。

奥田 聞き慣れない言葉ですね。なんですか、そのインスピレーターというのは。

山口 思いつき屋です。ときどきピンとくるんです。いろんなイベントを考えたりとか、もちろん、クルマがメインのイベントですけど。

奥田 雑誌やブログなんかにもコラムを書いたりされるんでしょう。

山口 小学校のときは、国語は5で、文章の天才だと思ってたんですよ。でも、1976年に本づくりの世界に入って、天才でないことがわかりました(笑)。文章がうまいかどうかというのは、二段階あることがわかったんです。

奥田 一段階は?

山口 自分が読んで面白いんです。こういう人っていっぱいいますね。でも、本は人様が読むものじゃないですか。それが二段階目で、読んで人に面白がって楽しんでもらう。これはたいへんなことで、そこのところがよくわかったんですよ。

奥田 本の世界に入るきっかけはなんだったんですか。

山口 とにかく、クルマのレースが好きでレーシングドライバーになりたかったので、編集のことはなんにも知らないですけど、クルマの編集部に入ると、それに一歩近づけると思ったんですね。

奥田 ああ、ドライバーを目指していたんですか。

山口 なりたかったですね。だめなら、エンジニアかなんかに。とにかくレース関係の仕事がしたかったんです。大学も10何校、全部、自動車工学がある大学ばっかり受けて、でもだめで、結局2年浪人して……。

奥田 どこに入られたんですか。

山口 千葉工大です。2浪で1年留年したので、卒業まで7年かかりました(笑)。それから、『auto technic』っていう雑誌の新入編集部員のテストを受けたんです。

奥田 なんていう出版社ですか。

山口 山海堂です。今は無くなりましたけど。76年に入って、85年に『auto technic』の編集長になりました。

奥田 クルマとの出会いは、どこが最初ですか。

山口 クルマはやっぱり親父ですね。親父が、クルマが大好きだったんです。人に話して面白い話じゃないけど、クルマに対しての思いが人の何倍も強いのは、親の仲が悪くて、それって子どもは嫌じゃないですか。親父に大事にして欲しかったのはお母ちゃんだったけど、親父が大事にしていたのがクルマだったんです。だから、クルマに母親像をみてるんじゃないかと。マザコンかな、そんな感じがしてるんですよ。説明しづらいけど……。

奥田 う~ん……。どんな子どもだったんですか。

山口 神奈川県の相模湖で育ったんで、小さい頃から遊覧船に乗ったり、モーターボートを運転してみたり、自然の中で遊びまわっていましたね。

奥田 やっぱり動くものが大好きだったんですね。その延長線上にクルマがあって、レース関係の仕事がしたいというのがあったんですね。
 

F1ブームを紙メディアで牽引

奥田 85年に『auto technic』編集長になられて、いよいよ、日本にF1ブームが巻き起こるんですね。

山口 そうです。87年に中嶋悟さんがF1にレギュラー参戦して、フジテレビが全戦放映するという大きい節目があったんですよ。で、これはチャンスだと思って、F1の雑誌をつくりたいんだと、社長にかけあったんです。最後の決定会議の時は辞表もって出たんですよ。

奥田 一大決心ですね。それが『GPX』ですね。

山口 やまっけのある社長で、やってみろということになって。内容だけではなく、サイズや紙質や色の具合なんかも徹底的にこだわってつくりこんだんです。

奥田 紙質からカラーまで含めて、創刊号を決めていくというと、相当ですよね。

山口 B4サイズにしたじゃないですか、すごくいいことが最終的には一つあったんです。面積が大きいから、情報がいっぱい入れられる。36ページで380円です。当時380円の本というと200ページくらいですから、ページ単価がどれだけ高かったか。

奥田 この本は何年まで続いたんですか。

山口 92年までですが、そのあと外に出して、お金を払ってやっていたんですけど、その後、完全に消えちゃいましたね。この本が画期的だったのは、世界で初めてのF1の速報誌だったことです。

奥田 F1の速報誌というのはどんなものなのですか。

山口 普通月刊誌なんですけど、F1のグランプリに合わせて速報で出したんです。グランプリ刊ですね。シーズン中はだいたい隔週で出していました。

奥田 F1って世界でグランプリが開催されるわけでしょ。現地取材の対応にカメラだと、当時はインターネットもないから大変でしたね。

山口 すべての工程を見直してのチャレンジでした。飛行機のなかでも、成田空港でも仕事をしてました。最盛期で、製作費が年間2億円くらいかかったんですよ。それで、4億円くらいの売り上げがあった。だから、2億円くらいの粗利があったんです。

奥田 これ1誌で2億円稼いだということですか。

山口 一番売れたときが20万部くらいですかね。部数を増やすという話もあったんですが、ちょっと足りないくらいが絶対にいいと。いずれにせよ、長続きはしないものだと思ってましたが……。

奥田 その先をみておられたんですか。

山口 ブームでしたから、テレビや雑誌とかいろんな取材が入るじゃないですか。そのときに、必ず言ってたことなんですけど。取材をしていただけるのは、非常にありがたいけど、10年経ったら、ダッコちゃんやフラフープといっしょで、F1もブームは去るよって。日本人って、熱しやすくて冷めやすいんですね。

奥田 たしかにブームは去りました。レースの世界では、今後、何が必要になるんでしょうか。

山口 レースで女の子を呼ぶのもいいけど、レースの本質を伝えたり、教えたりしないと、多くの人の共感は得られないと思うんですよ。

奥田 レースの本質を伝えるというのが、山口さんに課せられたお仕事ということですね。(つづく)

 

山口さんが編集された『GPX』

 「ふつう人生のなかでは、生死の判断をするときはそんなにない。でも、レーサーにはサーキットのコーナーコーナーにそれがある。金が欲しいのではない、かっこよく走りたいのだ」。山口さんの言葉がこの雑誌につまっている。