社名にはこだわらない。IT産業全体が一つの会社だ――第146回(下)

千人回峰(対談連載)

2015/10/29 00:00

長谷川 礼司

長谷川 礼司

JBCCホールディングス 社外取締役

構成・文/小林茂樹
撮影/大星直輝

週刊BCN 2015年10月26日号 vol.1601掲載

 自らを「外資系のチーママ」と称する長谷川さんだが、日本IBMを退職してから、国内の大手ベンダーに対してある種の憤りを感じていたという。それは、当時の彼らが国内でのパイの取りあいに終始し、本当の敵である海外勢と戦うことに全力を注いでいなかったからだ。だからこそ、長谷川さんは一つの産業は一つの会社だと思ったほうがいいと語る。その背景には、外資での豊富な経験に裏打ちされた感覚と、おそらく日本のIT産業に対する思いが込められているのだろう。(本紙主幹・奥田喜久男)

2015.8.18/東京・千代田区のBCN22世紀アカデミールームにて
 

写真1~3 長谷川さん愛用品の数々
どれにもさらりとした“こだわり”が感じられる
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第146回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

日本IBMに「外資系」のイメージはなかった

奥田 最初に入った日本IBMには、ずいぶん長く勤められています。

長谷川 辞めたのは42歳のときでちょうど20年ですが、IBMはすばらしい会社だと思い働いてきました。奥田さんからみれば、防大から外資に身を売ったということになるのでしょうが、あの頃の日本IBMには外資系という意識はそれほどなかったのです。

奥田 そうでしたか。内部におられた方にしかわからないこともありますよね。

長谷川 社長の椎名武雄さんが、"Sell IBM in Japan, sell Japan in IBM"という標語を掲げて、日本の企業として認知されることを目指し、日本法人の自立を図ろうとしていました。家族ぐるみの付き合いもありましたね。

奥田 当時、椎名さんは民族系の企業だと言っておられましたね。

長谷川 あの頃は、新日鉄の生産管理オンラインシステムの「AOL」や朝日新聞の新聞製作システム「NELSON」など、日本IBMが業界の先駆者として革新的な仕事をしてきたので、すごく勉強させてもらったと感謝しています。

奥田 具体的にはどんな業務に携われていたのですか。

長谷川 私自身はずっと流通系のシステムに携わっており、38歳のときにPOSの責任者としてビジネスユニットの事業部長になりました。ダイエーを担当したときは、POS導入時にお店まで行き、地べたを這いずり回って、ケーブリングまで、みんなで手伝い、汗を流したものでした。

奥田 そこまで徹底してやられたんですね。

長谷川 お客さんの要望に応えるため、研究所に技術的な相談に行くと「できます」と言ってくれるんです。そうなれば、やりがいが感じられますよね。ところが、POS単独で黒字を出せる価格では他社に負けてしまうのです。このときは大きなジレンマに苛まれました。

奥田 日本IBMでの20年で得られたのはなんでしょうか。

長谷川 ビジネス全体を把握できたということですね。当時のコンピュータの基本的な目的は、生産性を追求することにありました。いかに経費を抑えるかということが主眼だったわけです。たとえば商社のビジネスモデルをきちんと理解したうえで、「ここに一番コストがかかっているから、ここをコンピュータ化すれば、年間どれだけの経費節減ができる」というようなロジックを組む必要があります。これによって、お客さんのビジネスモデルを俯瞰して把握できるようになったということですね。

奥田 ユーザーのビジネスモデルまでしっかりと理解して、提案するわけですね。

長谷川 あとは、そのプロセスでお客さんに提案する優先順位。つまり「ここをまず潰していきましょう」というための把握のしかたを勉強した記憶があります。いわば、ロジカルに売り込んでいくためのテクニックですね。

奥田 それは、IBM固有のノウハウですか。

長谷川 そうですね。そのノウハウと私の論理的思考のしかたがマッチしたのだと思います。
 

波乱万丈、短期勝負の外資時代

奥田 日本IBMを卒業されてからは、本当に転々とされていますね。

長谷川 力が足りなかったのでしょうが、外資系というのはそういうものかもしれません。雇われ社長のようなことをやっていると、短いと1年、長くて3年がふつうです。

奥田 まず、ボーランドに移られました。

長谷川 フィリップ・カーンという優秀なフランス人が設立した会社で、表計算ソフトのQuattro Pro、データベース管理ソフトdBASEなど、個人向け市場では伸び盛りでした。ボーランドは法人を攻略するために私を採用したんです。ところが、法人向けのデータベースは結局リリースされませんでした。ここは、1年半で終わりです。

奥田 その後アップルに3年在籍した後、サイバーガードの日本代表に就任されています。

長谷川 ここはセキュリティソフトの会社で、世界の二大ファイアウォールのうちの一つとされていたのですが、結果的にライバルに負けてしまいました。

奥田 それはどういうことでしょうか。

長谷川 日本のあるSIerがサイバーガードの製品を採用してくれ、大阪で行われた契約の調印式には、米国本社のCEOがやってきました。その後東京に戻り、彼をホテルに送り届けたのですが、自宅に電話があって「礼司ごめん、帰らなければならなくなった」と。翌日、顧客のSIerのところに行ったら、米国本社からの通知を見せられました。チャプターイレブン(倒産)。絶句ですね。当然日本支社も閉鎖です。

奥田 そんな経験もされているんですか。

長谷川 ほどなくして、ヘッドハンターが紹介してきたのが、フランスのビジネスオブジェクツ。でも、1年3か月でクビになりました。IBM時代のようにヘッドクオーターとガンガン交渉したことがあだになったようです。

奥田 同じ外資系でも体質が違うんですね。

長谷川 それで、次に行ったアップストリームでは、初めて日本法人の立ち上げをしました。会社設立ですね。ところが、米国本社がおかしくなって潰れてしまった。せっかくつくった日本法人も閉鎖です。

奥田 次のアプレッソは10年と少し落ち着きます。

長谷川 私の動きを誰かが上から見ていて「長谷川はヒマになったらしいぞ。じゃ今度はこういうのをやらせてみるか」と指示しているような気がするんです(笑)。

奥田 いろいろな人に見込まれるんですね。

長谷川 人に恵まれているんです。私はIBM時代にも2年以上同じ名刺をもったことがありません。だから当時はもちろん、IBMを辞めてからもIT産業イコール一つの会社だと思っています。社名が変わってもやることは一緒。顧客が個人でも法人でも、情報システムというソリューションで利益をあげるということです。

奥田 なるほど! 日本IBMを20年、外資5社で10年、アプレッソで10年、ざっと40年。JBCCの社外取締役はプラスアルファで、エージシューターをめざすと。

長谷川 そうですね。でも、まだ人生を総括する心境には至っていませんよ(笑)。

 

こぼれ話

 初対面のとき、「うっとりするほど美しい人だ」と思った。女性に感じるそれに似たものを感じた。20代の頃に会っていたらみとれてばかりいたのではないか、と思うほどの歌舞伎役者振りだ。新聞記者の駆け出しの頃、日本IBMの記者会見で椎名武雄さんに会ったときも似た色気を感じた。この色気はIBM環境のなかで育まれたものではないか、とも思う。

 コンピュータも外資系企業も今ではあたりまえの存在だが、70年代にあっては“ハイカラ”の範疇に入る。最先端の世界へ軍人になるべく教育を受けた防大生が入社した訳だから、その理由を機会があったらしっかり聞きたい、と今回のチャンスを狙っていた。その理由にはなるほどと納得するところと、後付けっぽいなと意地悪く思うところもある。

 次の転換はIBM退社後だ。外資系企業ならではの波乱ともいえるが、40代の仕事盛りとしてはほぞを噛む出来事もあり、語れない事も多いのではないかと思う。50代にはアプレッソを育て上げ、経営の第一線から退いた。時に62才である。現在の肩書きはJBCCホールディングスの社外取締役だ。私と同世代の人の引退は寂しいので長居してほしい。

Profile

長谷川 礼司

(はせがわ れいじ) 1951年、青森県生まれ。73年、防衛大学校航空工学科卒業。同年、日本IBM入社。20年勤務した後、IT系外資系企業に転職。ボーランド、アップルコンピュータ、サイバーガードコーポレーション、日本ビジネスオブジェクツ、アップストリームの経営中枢を歴任。02年、アプレッソ代表取締役副社長。03年、代表取締役社長。14年、同社顧問、JBCCホールディングス社外取締役に就任。