豊かになった中国人消費者にITで日本製品を売り込む――第141回(上)

千人回峰(対談連載)

2015/08/06 00:00

黒田 淳貴

黒田 淳貴

クーパル 代表取締役

構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2015年08月03日号 vol.1590掲載

 失礼ながら、実直な若手ビジネスマンにしか見えない黒田社長。開成中学・高校から慶應義塾大学へと順風満帆に進んだエリートにしては、地を這うような苦労をたくさん重ねられたようだ。穏やかな雰囲気とは裏腹に、「自分でやってみないと気がすまない性格」で、深セン駐在時代は毎日のように中国人とけんか腰の交渉をしてきたという。「日本人で自分ほど中国語を話せる人はそれほどいないと思います」とさらりと口にできる自信が、新しい中国ビジネスの成功を予感させる。(本紙主幹・奥田喜久男)

2015.4.23/東京・港区浜松町のクーパル本社近辺にて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第141回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

海外ビジネスのハードルを取り除く

奥田 黒田さんが会社を設立されたのは昨年の7月ですが、まずクーパルという社名の由来を教えてください。

黒田 英語でCoopalと書きますが、coopが「協力」で、alがグローバルの綴りの最後の部分です。世界中の人とお互いに協力してビジネスを進めていける環境をつくりたいという思いを込めました。

奥田 なるほど、ホームページに書かれているように海外ビジネスのハードルを取り除きたいと。これは、いつごろ思いついたのですか。

黒田 以前、私は中国で、日系企業に対する電子部品調達のお手伝いをしていました。そこで感じたことは、言葉や文化が国ごとに異なることが、海外ビジネスの大きな障害になるということでした。それならば、その障害を取り払ってお互いに協力し合えばスムーズにビジネスを進めていけるのではないか。つまり「この国でビジネスがしたい。でも、この国の言葉も文化も慣習もよくわからない」という方と「その国の言葉も文化もわかる」という人をつなげば、うまくいくのではと考えたわけです。

奥田 黒田さんはまだ32歳。社会に出てほぼ10年ですね。ここまで、どんなキャリアを積まれたのですか。

黒田 2007年に大学を卒業して、製造業向けのコンサルティング会社に就職しました。その会社はコンサルティングだけでなく、工場をもってものづくりもしており、そのノウハウを日本の別のメーカーに伝えるというビジネスモデルをもっていました。私は工場に配属されて、現場のカイゼンや生産技術の仕事に携わり、ものづくりの基本や社会人としての仕事の進め方を学びました。

 ところが、09年、前年に起きたリーマン・ショックの影響で、会社が民事再生法の適用を受けてしまったのです。入社して2年ほどの時期ですが、このあとどうしていこうか、自分は何をやりたいのかと悩みました。これが27歳のときのことです。

奥田 いきなり、大きな試練に見舞われたのですね。

黒田 勢いだけでしたが、そのとき海外で働こうと考えました。これからグローバル化がもっと進むだろうし、もともと海外に興味があったので、そういう視点で仕事を探したのです。そんななか、中国赴任を前提とした募集があり、その会社に応募して入社が決まりました。
 

入社2日目には中国・深センに赴任

黒田 入社したのはNTW.Incというプリント基板の専門商社で、赴任先は深センです。入社初日に手続きのために東京の本社に出社し、翌日には中国に向かいました。

奥田 すでに中国についての知識はあったのですか。

黒田 大学時代、第二外国語で中国語を勉強したことと、何度か旅行をしたくらいです。仕事として中国と関わるのは、これが初めてでした。

奥田 最初に中国に行かれたのは、何歳のときですか。

黒田 18歳のときです。北京に個人旅行で行きました。2001年ですから、オリンピックの開催前ですね。

奥田 北京の最初の印象は?

黒田 汚いイメージでした。その頃の北京は、ようやく地下鉄の1号線が開通した当時で、空気もどんよりしていましたし、道路に大きなゴミが落ちていたり、こんな大きな国の首都なのにと驚きました。ただ、そこらじゅうでビルを建設しており、すごい活気を感じました。そういうエネルギッシュに発展を続けているところが、いまの日本と大きく違います。

奥田 その後、中国には?

黒田 上海には3回ほど行きました。上海出身の留学生の友人の家に1か月ほどホームステイをさせてもらったこともあります。それが21歳の頃でした。

奥田 18歳、21歳、27歳ですか。やはり、中国になにか特別な意識をもっておられたのでしょうか。

黒田 ずっと気になっていたのかもしれません。中国語を勉強していたこともあって、現地で使ってみたい気持ちもありました。だけど、実際に行ってみると、まったく通じませんでしたが(笑)。

奥田 それで、27歳にして、中国をビジネスの場として絞り込んでいくと。

黒田 私が赴任した2009年は、中国は年率10%といったすごい勢いで成長しており、日本をこのまま追い抜くといわれていた時期です。当然、日本にとって無視できない国になっており、そのスケールの大きさからも、ビジネスチャンスは多いだろうと考えていました。

奥田 ところで、入社翌日から中国ということですが、とまどいはありませんでしたか。

黒田 いきなり現地に来いといわれて、香港から深センに向かいました。空港からワンボックスカーの乗り合いタクシーに乗って、人数が揃ったらそのまま目的地に向かうのですが、深センの外れにあるシャージン(沙井)という町まで2時間ほどかかったことを覚えています。

奥田 よく、いきなり乗り合いタクシーに乗れましたね。

黒田 そうですね。ドキドキしながら、本当にこれに乗って大丈夫かなと不安でした。空港に誰かが迎えに来てくれるわけでもなく、一人で直接来てくれといわれていたので、そうするしかなかったのですが……。「空港で沙井と言って、チケットを買えば大丈夫だから」と教えられて、チケットカウンターで沙井という字を見せたら、これに乗れと(笑)。それでも半信半疑でした。

奥田 沙井に着いたときは、どんな様子でしたか。

黒田 現地の上司や同僚が待っていてくれて、会社で借り上げた部屋に案内してくれました。3LDKのマンションで、同僚と共同生活です。到着した日は、食事に連れて行ってもらってこちらの生活のことを教えてもらいましたが、まだ右も左もわかりません。

 最初の半年ほどは、言葉でとても苦労しました。外出するときにクルマを出してもらうための交渉でも、食事を注文するときも、なかなか私の中国語が通じません。生活していくこと自体が大変でした。もちろん、仕事もいろいろ覚えなければいけませんし、プリント基板のことも勉強しなければなりません。もう、無我夢中でした。

奥田 採用して、すぐ現地に行かせる会社も度胸あるけど、行く人も行く人ですよね(笑)。

黒田 そうですね。まあそれぐらいでないと、やっていけないだろうと思っていたのかもしれませんね。(つづく)

 

増補したスタンプだらけのパスポート

 黒田さんのパスポートは、出入国のスタンプでいっぱい。そのため増補してもらって対応しているが、それでも2、3年でいっぱいになってしまうという。だから、更新するときも有効期間が10年のものでなくわざわざ5年のもので申請するそうだ。

Profile

黒田 淳貴

(くろだ じゅんき) 1982年、神奈川県横浜市生まれ。2007年、慶應義塾大学商学部を卒業後、金型メーカーにて3Dプリンタによる試作品製造工場の改善活動などを担当。その後、2009年から電子部品商社の駐在員として、中国・深センに約5年間赴任。現地法人の社長として、提携中国メーカーの納期・品質管理、新規サプライヤーの開拓、日系メーカーへの営業などを担当。2014年7月、クーパルを創業。