いつも「創新」~常に新しいものにチャレンジする――第75回

千人回峰(対談連載)

2013/02/04 00:00

魏 芝

魏 芝

芝ソフト 代表取締役

構成・文/小林茂樹
撮影/横関一浩

 先日、魏芝さんの故郷の成都でご夫君の王健さんと一緒に、道教のお寺のある青城山に登った。ソフト会社で辣腕をふるう起業家には見えない、落ち着いた雰囲気を漂わせる魏さんは、ずいぶん熱心にお参りをしておられた。普段の顔と経営者の顔、その差はどこにあるのかと、興味を抱いた。【取材:2012年8月8日 東京・千代田区内神田のBCNオフィスにて】

歴史上の好きな人物は? の問いに魏さんは、「諸葛孔明ですね。そして好き嫌いは別にして、すごいと思うのは毛沢東です。この二人に共通しているのは予測能力の高さです」と答えてくれた。
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第75回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

日本に学びたいという想いで起業

 奥田 魏さんは、芝ソフトの社長として、現在、上海と東京を忙しく往復しておられるようですが、最初はどんなきっかけで、日本と関わるようになったのですか。

 魏 私は成都の電子科技大学を卒業して、北京の中央政府機関でITの教師を務めていたのですが、当時、中国政府と日本政府の間で日中青年交流センターをつくるプロジェクトがあって、そこで中国在住の日本人と知り合ったのがきっかけです。

 奥田 ほう、政府機関でITの先生ですか。ITといっても当時と今ではだいぶ様相が違うと思いますが、どんな分野について教えておられましたか。

 魏 通信関連ですね。私が卒業した電子科技大学は工学系の大学ですが、そこで通信を学びました。卒業してから約3年間、北京で教師を務めました。教え子は学生ではなく、政府部門にすでに勤められている方々です。知識を更新するためで、中国全土の政府部門から選抜されて北京に集めてきたわけです。

 奥田 その後、来日されたわけですが、なぜ日本に来ようと思ったのですか。

 魏 中国からみると、当時の日本はたいへんにすぐれた先進国というイメージがあって、「日本に学びたい、日本に行ってみたい」という気持ちが強かったのです。また、知り合った日本人の友人の紹介もあって。この友人は、ものすごく人脈の広い方で、当時の周恩来や鄧小平とも親しい関係にありました。

 奥田 日本に来る前と来日してからでは、イメージが変わりましたか。

 魏 日本に来る前は、先進的な国だと思っていましたが、実際には非常に伝統を重んじる社会であることにびっくりしました。ひと昔前の中国にあったような人との接し方や文書の書き方など、今や古臭いと捨てられてしまったことが日本ではきちんと守られていることに驚きました。

 奥田 東京に来て、最初はどんな動きをされたのですか。

 魏 日本語学校に3か月通い、その後、日本のIT会社にSEとして入社しました。

 奥田 ということは、日本企業のソフトウェアを開発したということですか。

 魏 そうですね。中国にいたころはソフトをいじった経験はあまりなかったのですが、日本に来てから勉強して、ソフト開発に携わるようになりました。

 奥田 そして、いよいよ会社(株式会社芝)を設立するわけですね。芝というのはご自身の名前ですよね。それを会社の名前にしたと。

 魏 ええ、日本では芝生の芝、それに東芝の芝としても知られていますから、わかりやすいネーミングだと思っています。それに中国には万病に効くという霊芝というキノコがありますが、そういうものにあやかる意味も若干あるのです。

 奥田 お父さん、お母さんも、魏さんの名前に「芝」をつけたときは、霊芝の芝をイメージされたのでしょうか。

 魏 聞いてみたら、「ツーツーホァ」という名前の花が四川省にありまして、それと発音が一緒だったからだということです。

 奥田 花の名前ですか。ツーツーホァのような可愛くきれいな子にという意味ですね。

 魏 そうですね。

 奥田 それを日本語にすると、芝生の芝、霊芝の芝になると。それで、日中経済交流がスムーズに円滑に進むように会社を起こしたわけですね。

 魏 1997年にその最初の会社、株式会社芝(現在は芝ソフト株式会社と名称変更)を設立しました。この会社の設立趣旨は日中交流であり、そのなかにはIT交流、スポーツ・カルチャー交流、健康交流の三つの事業が含まれています。これらの事業については現在までずっと続けてきています。ITについては、今の芝ソフトで継承しています。その他の事業は、別会社を設立して継承しています。

 当時、中国では国営企業を改革するために、盛んに人的交流、経済交流を行っており、私はそのお手伝いとして、日本企業の方々を中国に案内したり、中国企業のCFO(最高財務責任者)クラスを日本での研修に参加してもらうためのイベントを企画したりしました。また、NEC、日立製作所、野村総合研究所など日本の大手IT会社も、コスト削減のために中国で生産する動きが本格化しており、それがご縁で仕事をいただいたという経緯があります。そのため、上海に開発センターをつくりました。現在は、上海芝遠ビジネス・コンサルティング株式会社(上海芝遠商務諮洵有限公司)という名称ですが、上海においては最も早くオフショア開発企業としてスタートした会社です。

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