紙かデジタルかではない。要は伝える中身だ――第51回

千人回峰(対談連載)

2011/04/27 00:00

丸島 基和

丸島 基和

新文化通信社 代表取締役

構成・文/谷口一

 出版界の専門紙『新文化』(新文化通信社刊)の2011年3月31日号の第1面に「ある電子書店が発信続ける“知られざる被災地”」と題する記事が掲載された。「東北地方太平洋沖地震」発生の翌12日、大地震が長野県栄村を襲った。しかし、報道は東北の津波・原発に集中した。その栄村の惨状を電子書店が発信し、それを『新文化』が伝えたのだ。このデジタルと紙の媒体リレー劇――。メディア界に身を置く者として、私はぜひ、新文化通信社の代表取締役であり、編集長でもある丸島基和さんに会いたいと思った。【取材:2011年4月8日 BCN本社にて)

丸島基和さんは、「必要とする人がいるコンテンツだから取り上げた。デジタルだからということで特別扱いしたのではありません」と述懐する
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第51回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

陽の当たらない所を照らす

 奥田 『新文化』3月31日号の紙面づくりの頃は、日本中が東日本大震災の惨状に大騒ぎしている最中ですよね。そのタイミングで、なぜ長野県栄村を取り上げることができたのですか。

 丸島 多くの人が東北の津波・原発事故に目を奪われているけれど、長野県も大変なことになっているんだということを、電子書店「わけあり堂」の中川さんを通して知りました。それで、うちの記者が飛びついて、原稿を書いて記事掲載を提案してきたというのが経緯です。

 奥田 ほう。記者魂ですね。

 丸島 陽の当たらない所を照らしていこうと思ってましたから、じゃあ、やろうと。下版(校了日)の二日前だったんですが、急きょ差し替えて。

 奥田 載せるべきと判断されたわけですね。ここで私が感じたのは、日頃の『新文化』の記事のトーンでいうと、デジタルのコンテンツに対しては一家言をもっておられるけれど、今回はデジタルの価値ある情報を紙で受け止めて伝えられたのだな、ということでした。日頃、デジタル教科書に批判的な丸島さんですが、今後のデジタルに対しての取り組みといったことについてはいかがですか。

 丸島 デジタル教科書については、文部科学省から小・中・高校と採用していこうという発表があったのですが、本当に小学生にデジタルが必要なのかということをずっと疑問に感じていました。

 小学生は、まだ分別がつく前ですから、心と体の問題が必ずつきまとってくると思っています。大人でも普通の社会生活ができない人が少なくない。そういう人たちの裏側の生活を見ていくと、必ずネットがあるんですよ。そういう人間は何か裏の世界に住んでいて、物事をリアルに捉えられないんです。そんな社会人が多くいるんですね。そういう基盤をつくるようなことを小学生にはさせたくないという思いがあります。結局は、使い方なんですけど。

 奥田 そのとおりですね。

 丸島 電子黒板などの教材で、立体的に音とか映像を使って教育をしていくというのは大賛成なんですが、子どもにコンピュータを与えてやらせるっていうのは、どうかと思います。今、辞書を満足に引けない子どもがたくさんいるんですよ。確かにコンピュータは一発でその言葉の意味を表示してくれますが、その言葉にたどりつくまでの楽しみが辞書であり、知的な膨らみがあると思うんです。

 奥田 道草の楽しみみたいなものですね。

 丸島 一言でいうと、子どもにコンピュータはまだ早いということです。子どもの頃、歌舞伎町に一人で遊びにいったらダメだとよく叱られていましたけど、そんな世界のど真ん中を、小学生の頃から歩いているようなものです。

 奥田 ネットに入ると…。

 丸島 そう、ネットに入ると。本当に怖いことだと思います。闇の部分ですね。

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