日・台の架け橋から、音の文化の守護神へ――第14回

千人回峰(対談連載)

2007/09/25 00:00

韋文彬

韋文彬

日本エム・イー・ティ 社長

半分は自分たちで稼げ

 奥田 工業技術研究院というと国策会社で、日本でいえば工業技術院のような機関でしょう。ベンチャー企業を興すような人材がなぜ集まったんですか。

 韋 確かに国策会社なんですが、日本のそれと大きく異なるところは、研究資金の半分は国が出すが、半分は自分たちで稼げという方針を打ち出していた点です。

 稼ぎ方には二つあり、一つは自分たちの開発した技術を有償でライセンスする方法、もう一つは民間企業や政府から開発を請け負い、商品化を図る方法です。

 ですから、研究者といっても、自分で稼ぐことには多大な関心を持っていました。それに、海外、たとえばシリコンバレー帰りの人間も多く、いずれは独立したいと考える人間は多かったですね。大体、新竹のサイエンスパークというのはベンチャーのために作られたといってもよく、土地などは非常に安く貸してくれました。

 ただ、当時の台湾はまだ貧しかったですから、銀行は民間会社にはなかなかお金を貸さず、ベンチャー企業に投資しようなどというところは皆無でした。ベンチャー企業を起こそうと思ったら、お金を持っている人間を探し、投資を依頼するしかありませんでした。日本の間接金融主義と異なり、文字通りの直接金融主義だったのです。

 ベンチャーが成功するには、3つのステップがあるといわれました。最初はコピーでスタート、ある程度技術が分かったら似たような応用製品を開発、そして独自製品の開発という3ステップです。

 奥田 その点は日本も同じでしたね。戦後成功している企業の多くは、最初はデッドコピーでスタートしています。ところで台湾は、パソコン本体だけでなく、周辺機器でも力をつけましたね。これにはどんないきさつがあったんですか。

周辺機器開発センターにも協力

 韋 工業技術研究院が、周辺機器開発センターを作ったのは1985年だったと思います。本体などの組み立てはそれなりにできるようになったんですが、材料や部品開発の技術は弱く、ほとんど日本企業に頼りきりのような状態でした。これを何とかしようということで、プリンタ、ハードディスク、ストレージデバイスの開発などに取り組みました。私も、ハードディスクのスピンドルモーター技術を持つ日本電産を紹介したりしました。

 この頃でしたね。キヤノンがIBM・PCのコンパチ機を作り、アメリカで売り出したところ、差し止めを食ってしまいました。それで、西和彦さんを通じて私に話があり、台湾メーカーに作ってもらえないかというのでお手伝いしたこともあります。

 また、リコーには、ポータブルワープロの中国語版を開発しませんかと声をかけ、METブランドで台湾、中国で売り出しました。中国はまだ貧しかったので、それほど売れませんでしたが、台湾では数千台売りました。

 奥田 あ、それはBCNで記事にしましたよ。「リコー4入力方式採用の中国語PWP発売」で、韋さんの名前が出た初めての記事ですね。

 韋 当時の野村証券の社長が、鄧小平さんを表敬訪問した時、この中国語ワープロをプレゼントしたもので、印象深かったですね。

 1988年には、鉄道局に高見沢電機を紹介、台湾で初の券売機を稼働させました。また、POSターミナルをガソリンスタンドに入れたり、この年に大きな転換期を迎えました。

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