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【おひとりさま移住物語】当時の私は仕事も、年収も、暮らしも「そこそこ」

暮らし

2022/02/01 12:00

 【おひとりさま移住物語 1】 これは、東京に生まれて、大学も就職も生活の拠点はずっと東京だった私がひょんなことから、2015年4月、42歳のとき、東京を脱出し、お一人様で富山県立山町へ移住した物語である。
 

 コロナ禍で日本でもリモートワークが定着し、地方移住へのハードルが下がっている。これまで移住といえば、住む場所、仕事、人間関係、すべてをリセットしてゼロからの再スタートだったのが、「住む場所が変わっても仕事は変わらず」が可能になったからだ。

 地方移住とまでいかずとも、東京を脱出して神奈川の藤沢、辻堂など郊外に移住する人も増えているという。通勤の必要性がなければ、バカ高い都心の家賃とオサラバして、もっとワークライフバランスを重視した暮らしを、と考えるのは、至極まっとうなことに思える。

今でこそ多くの人が聞きなれた「移住」というワード    

 今から7年前、地方移住が少しずつ注目され始めた頃、東京生まれ、東京育ちの私はすべてをリセットすべく、東京を脱出して富山県立山町へ移住した。仕事を変え、住む場所を変え、新たな人間関係を築くことにした。当時、42歳。お一人様での移住だ。
 
開通したばかりの北陸新幹線「かがやき」号に乗って(徳永英明の名曲「輝きながら」を口ずさみながら)

 焼肉やカラオケなら「お一人様」も聞いたことあるけれど、お一人様で移住なんて気の毒な~と思われた方もいるかもしれない。しかも、人生のリセット? 何かお辛いことでも?と思われそうだけれど、実際のところ本人はいたって前向き&ハッピーな決断、ちょっとわたし、富山へ引っ越します的なお気軽さだった。

おひとりさまだからこその冒険心

 大学卒業後、何度も転職を重ね、企業に属しながらのライター業で生計を立ててきた。仕事も軌道に乗り、一度は自分のほしい年収を叶えることもできたが、この先の人生に何かトキメキを求めた頃、出会ったのが富山県だった。

 もっと言えば、富山に住む人々だった。

 きっかけはSNS。Facebookが全盛だった7年前、縁あって芋づる式で富山に住む人々とつながり、富山へ遊びに行くようになった。当時はもっぱら空の便で、羽田空港から飛行機に乗って富山空港へ足繁く通った。
 
雪国富山では山や大自然の中での遊びの宝庫。スノーシュー後のチーズフォンデュは格別

 やれ忘年会だ、新年会だ、祭りだと、チャンスを見つけては富山を訪れ、富山の友人たちの情の厚さ、家族のように親身になってくれるおせっかいなほどの親切心にハートを撃ち抜かれていた矢先、友人の一人が何気なく言った「そんなに富山が好きなら、こっちに住んじゃえば?」の一言で移住を決めてしまったのだ。

 「まだ見ぬ景色がみたい」。振り返ると、42歳の頃の私はこのまま東京で暮らせば、10年後、20年後も「そこそこ」な人生を送っている自分が簡単に想像できるような気がしたのだ。「この先の人生がなんとなく想像できた東京」を脱出して、「先行きの見えない人生にチャレンジしたい」「見知らぬ土地で自分を試してみたい」との冒険心が大きかった。
 
家の近くを散歩すればここは日本のアルプス?と見まがうほどの立山連峰

 家族や子どもがいたらそう簡単に人生のステージを変えることは簡単なことではない。それができた理由に、私がお気楽なお一人様ライフを満喫していたから、という理由も大きいのだけど。(髙橋秀子)

■Profile
髙橋秀子/TAKAHASHI Hideko
東京生まれ。慶應義塾大学 文学部 卒業後、ライター業を経て2005年地域おこし協力隊として富山県立山町へ移住。「季刊 日本で最も美しい村」の取材で全国の美しい村を執筆。2020年東京に戻り、東京・福生市の石川酒造にて日本酒とクラフトビールの魅力を日々伝えている。