日本語プラス1つの外国語を――第10回

千人回峰(対談連載)

2007/05/21 00:00

志賀徹也

オートデスク 元社長 志賀徹也

ゲスト:元オートデスク社長の志賀徹也 VS ホスト:BCN社長 奥田喜久男  志賀さんがオートデスクの社長を辞められたと聞いて、急に会いたくなった。前回の平松さんと同じく、国産メーカー(日本電子)でスタートしながら、平松さん言うところの“外資系の雇われ社長”を経験してきた。「しばらくはのんびりします」とのことだが、意外な企業で再び会えるに違いない。【取材日:2007年3月27日 オートデスク会議室にて】

 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第10回>

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。
 

電子顕微鏡の日本電子でミニコン開発

 奥田 志賀さんが最初に就職したのは日本電子だったんですってね。外資系一筋でこられたのかと思っていました。

 志賀 私が大学を卒業したのは1970(昭和45)年ですが、大学を出る頃、海外に行ってみたいなーと漠然と考えてました。それで、動機はいささか不純なんですが、海外に行けそうな会社ということで、日本電子を選びました。この会社は、電子顕微鏡で急成長を続けていた頃で、輸出比率は70%に達していました。これなら、海外に出るチャンスは多いだろうと思ったわけです。今でいうベンチャー企業のはしり的存在の会社で、1970年には兜町ではじめて1000円の大台を超える株価もつけてました。初任給も高く、松下電器が4万1000円だったのに、4万1200円でした。

 電子顕微鏡に加えて各種の分析機もやっており、それに必要なミニコンピュータを開発しようということで、コンピュータ事業部を作ったばかりでした。私は電気工学科を卒業しましたが、コンピュータの勉強もやってたせいか、できたばかりのコンピュータ事業部に配属されました。

 奥田 当時は、国策でコンピュータの輸入制限が非常に厳しく、ミニコンについてはタケダ理研という会社だけが製造を許されていたのでしたね。

 志賀 そう、そう。日本電子は自社のコンピュータを使ってましたが、次のバージョンを開発しようということで、入社3年目に研修目的で、アメリカ出張を命じられたのです。

 乗った飛行機はブラジル航空で、機種はDC-8、トウモロコシ臭かったことを覚えてます。当時は、アメリカに入るのもアンカレッジ経由でした。ロスアンゼルス空港に降り、バスでテキサスに向かったとき、バスの運転手から「テキサスなんて田舎に行くな。ここにいるほうがいいぞ」と言われたのを覚えています。テキサスには3か月居て、お昼は毎日マクドナルドを食べてました。おかげで――原田さん(原田泳幸、日本マクドナルドホールディングスCEO)には悪いんですが――マックの匂いを嗅ぐのもいやになってしまいました。1日に使えるお金は14ドルだったと思います。これで宿泊費から食費まですべてまかなうわけです。

 奥田 まだ1ドル360円の時代ですね。

 志賀 そうです。帰国してすぐ、アメリカに5年間駐在という辞令をもらいました。ところが、1974年にドルショックに見舞われて…。360円が280円になり、さらに下がっていくわけです。会社は、これではやっていけないということで、海外駐在員の全員引き上げを決めました。結果的には11か月間だけアメリカにおりましたが、もっと居たいというのが本音でした。

 じつはアメリカにいる間、DECには何度も足を運びました。日本電子で作ろうとしたミニコンは、DECを手本にしていたからです。アーキテクチャーとか構造とか、とりあえずDECを真似ようということでスタートしました。しかし、最終的には国策もあり、TIのコンピュータを採用しました。

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