中小企業にぞっこんで、力になりたいと願う――第36回

千人回峰(対談連載)

2009/03/16 00:00

桑山義明

桑山義明

シーガル 代表取締役社長

 「八王子に元気な経営者がいる」という話を聞いたのが1981年頃。それが、79年にシーガルを設立した桑山義明さんだった。現在はシーガルの社長を務めるかたわら、NPO法人のOCP総合研究所理事長として中小企業の経営革新支援に携わるなど、精力的な活動を続けている。パソコン草創期の話から現在取り組んでいることまで、じっくりとお話をうかがった。【取材:2009年1月30日、BCN本社にて】

桑山さんは、「私ひとりでどうこうできるというわけではありませんが、
小さなITベンダーを何とかしたいという気持ちがあります」と語る
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第36回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

PETとの出会いが独立のきっかけに

 奥田 1981年というと私どもBCN創業の年ですが、その頃はまだ「業界」というものが形成されていませんでした。そのため私は、たとえば、赤坂に孫正義さんがいる、四番町に古川亨さん、青山には西和彦さんがいる……、と聞くと、すぐ取材に駆けつけて話を聞いたものです。その一人が、八王子の桑山さんだったわけです。

 桑山 そうですね。そして奥田さんには、当社の10周年記念式典の司会をやっていただきました。このとき来ていただいたのが、当時、マイクロソフト日本法人社長の古川亨さん、NECの営業本部長だった高山由さん、一橋大学出身の高橋三雄先生(現・麗澤大学教授)、東京電機大学の脇英世先生など多士済々でした。

 奥田 どうして私が司会をしたんだろう。いきさつが思い出せない……。

 桑山 そうですね。私もその間の記憶が飛んでいます。まあ、何かその途中にあったんでしょうね(笑)。

 奥田 ところでシーガルは、最初はどんな事業が中心だったのでしょうか。

 桑山 あの頃は、ショップでBASICなどを教えていました。まだパソコンの黎明期で、アプリケーションもあまりない頃ですから、ある程度自分でプログラムを組まなければいけない時期でした。ショップに集まってくるのは、個人でコンピュータをやろうという人たちで、いまでいうオタクのようなタイプが多かったですね。

 奥田 会社でコンピュータを使っている人でも、自宅では使わなかった時代ですから。ある意味、先鋭的な人たちが集まったといえますね。

 桑山 当時、東京大学の渡邊茂先生や石田晴久先生といった高名な先生を招いて、毎週土曜日に勉強会を開いていたんです。

 奥田 それはすごい。桑山さんには、若い頃から人を引きつける力があったのですね。ところで、独立のきっかけはどんなことにあったのですか。

 桑山 私は信州大学の工学部を出て、八王子にある日本分光という会社に勤めていました。光でモノを分析する会社です。もともと機械屋ですから、最初は旋盤やフライス盤を回したり、分析機の設計、それに広報や人事の仕事も経験しました。

 会社を辞めて独立したのが33歳の時ですが、そのきっかけとなったのが1977年にリリースされたパソコン、コモドール社のPET(世界初のオール・イン・ワン ホームコンピュータ)との出会いです。コンピュータの素地はまったくなかったのですが、教室に通ってBASICなどの勉強をしているうちに、これは使えるのではないかと感じたのです。

 在籍していた日本分光は繊維やプラスチック、飲料などを分析してデータ処理する会社ですから、安価なパソコンを導入してその仕事をやろうと社内で提案したのですが、そんなおもちゃのようなコンピュータではダメと却下されてしまいました。

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