380年前の祖先にならい76歳での現役を目指す――第136回(下)

千人回峰(対談連載)

2015/06/04 00:00

宮崎 寒雉

釜師 宮崎寒雉

構成・文/浅井美江
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2015年06月01日号 vol.1581掲載

 対談の後、撮影のために自宅裏手にある工房に案内していただいた。いつのまにか降り出した雪が、手入れのよい日本庭園を見事な雪景色に変えている。撮影中、ひょんなことからコンピュータの話になった時、「僕、コンピュータは自作なんです」と14代目がこともなげにおっしゃった。しかも1台だけではないらしい。休日には秋葉原にパーツを探しに行かれることもあるのだそうだ。また一つ、14代目の新たな佇まいを見せていただいた。(本紙主幹・奥田喜久男)

自宅裏につくられた工房で作業をする14代目。山砂が敷き詰められたなか、釜づくりに関するさまざまな道具が所狭しと並んでいる。
 

写真1 作業衣をまとった14代目。工房に入る時はいつもこの姿
写真2 新旧が隣り合う道具の数々
写真3 5の霰釜に使う鋳型。手作業で1粒ずつ押していく
写真4 工房の神棚にかけられた注連縄
写真5 「霰(あられ)」と呼ばれる釜肌の装飾技法の一つ。粒状の細かな突起が特徴
写真6 機械の調整にも細かな気配りが必要とされる
写真7 「寒雉庵」の扁額に迎えられる
写真8 この鋳型に鋳鉄を注ぐ
写真9 4代目作。「帯雲」の文字は裏千家家元・坐忘斎によるもの
写真10 釜底に見えるのは漆で貼り付けられた鉄の小板。湯が沸いている時の音をよくするために取り付けられる
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第136回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

跡を継ぐ決心を固めさせた工房の道具たち

奥田 今は宮崎さんが14代目の当主ですが、息子さんも釜師の仕事を継いでいらっしゃる。となると、そのうち代が代わりますよね。継がれる時、なにか儀式というのはあるのでしょうか。

宮崎 いえ、何もありません。僕の時も親父が亡くなって、「はい、14代になりました」と宣言して終わりです。ただ、親父は自分が継いだ時、裁判所へ行って、下の名前を変えました。実は、宮崎家の当主は、「彦九郎」を名乗るんです。親父まで13代宮崎彦九郎が続いています。でも、僕はそんな面倒なことはやってない。本名のままです。(苦笑)。

奥田 15代目はどうされるでしょうね。

宮崎 ちゃんとするでしょうね。おそらく。

奥田 ということは、14代目がちょっと変わりもの……?

宮崎 (苦笑しながら)いやあ。申し訳ないけど、ちょっとヘン……かな。実は、宮崎家には、代々、子どもの名前に用いる漢字が何種類かあるんですが、僕は息子にその字を使わなかった。

奥田 どんな字があるんですか?

宮崎 僕の本名(尚樹)にも入ってますが、「尚」とか「直」とか、いくつか。でも、それを全然使わなくて。

奥田 それは意識して? どうしてですか。

宮崎 なんでかなあ。ささやかな抵抗だったのかなあ。

奥田 ということは、跡を継ぐことに多少なりの抵抗感があったということでしょうか。

宮崎 僕は昭和15年生まれで、大学を卒業したのは1964年。東京オリンピックの年です。世は高度成長期。大学の同期はほとんどが東京の一流企業に行き、地元に残るのは数人ほどでした。そんな時代に工芸とか、ましてお茶(茶道)の道具で食えるのかと。もう不安で不安でね。

奥田 その不安が払しょくされたのはいつですか。

宮崎 12代目が亡くなった時です。葬儀が終わって、工房に入ってふと見たら、いろんな道具がある。でも、それをどうやって使うのかすらわからんものがあるんです。ああ、これは自分の手に負えない。継がなくてはと思いました。

奥田 それは、自分が一人前だと思っていたのが、使い方すらわからないものがたくさんある、これはとんでもないことだと……。

宮崎 そうです、そうです。道具の使い方がわからないどころか、何故そういうものがあるのかすらわからないものもある。それに、原料となる鉄くずがあったとしても、どこからどうやって買ってきたのか、同じものを注文しようと思ったら、どう説明すればいいのか、さっぱりわからない。その時に心が決まりました。

奥田 お父様は13代目を継いでいらっしゃるんですよね。その関係はどういう……?

宮崎 親父はもちろん釜はつくっていましたが、注文を取ったり、外回りもしていました。僕は、ずっと仕事場にいて、下職として、親父がとってきた注文の下ごしらえとかをするわけです。外に出るより、つくっているほうがおもしろかったですから。だから、お客さんの顔なんて全然知らなかった。当時は、工房にいればそれでいいと思っていましたね。
 

一番の楽しみは得心の釜をお客さまに届けること

奥田 今度は釜をつくられる時のことをうかがわせてください。いろいろな工程があると思いますが、何が一番楽しいのでしょう。

宮崎 鋳物は、自分の手の及ばないところがあるんです。どんなに気を使ってつくっていても、実際に型から出してみないと、ほんとに成功したかどうかわからない。

奥田 なるほど。

宮崎 木型をつくって、鋳型を引いて、炭で焼いてから鋳鉄を型に注ぐ、などのさまざまな工程があるんですが、つくっているそれぞれの時点で、「これ、うまくいくんかなあ」と不安が積み重なっていくんです。だけど、あくる日、型から出してみたら、ちゃんとできていた。そうなったら後はこっちのもんやと。そうやってできた釜を、依頼していただいたお客さんのところに「はい、できましたよ」と持っていくことが楽しいですね。

奥田 そんなふうにいいものをつくるために、工場を改革するとか、生産工程を近代化するなど、一般の企業は考えるのですが、釜師としてはいかがですか。

宮崎 最近、材料となる鉄を溶かす溶解炉を替えました。例えば、焼き物とかだと、燃料とか、焼く時の窯の種類とかにこだわりがあると思うのですが、鋳物の場合は、質のいい鉄を溶かすことと、できあがったものが茶道具としての美をもっていること、この二つだと、僕は思うんですね。それで鉄を溶かす最新式の機械を入れました。

奥田 機械を導入したことで、作業時間が短縮できたとか?

宮崎 いや。時間的にはそんなに変わりません。まるきり機械に任せて、あとは別の仕事を、というわけにはいかないんです。ちょこちょこ様子をみては材料を継ぎ足したり、成分調節をしたりしなければならないので。ですから、機械を入れた効果としては、安定性があるのと、安全性の面ではよくなったかな。1500℃に溶けた鉄を扱う仕事ですから。

奥田 ほかに改革したいものとか、ことはありますか。

宮崎 デザインかなあ。僕が目指しているデザインは、仙叟宗室が初代寒雉になにを教えていったのか、という原点に帰りたいんです。原点に帰りつつ、それにプラスして、なにか「おや」と思わせるものをつくりたいですね。

奥田 原点プラスαですか。そうすると、今は「守破離」の離にあたるのかしら。

宮崎 いや、ゴールには到達し得ないと思います。そもそも、一人前にもなれないと思う。でも、初代の作品のなかに、76歳の時につくったという、珍しく銘が入った小さな釜があるんです。だから僕も76歳までは頑張りたい。あと2年ですけど。

奥田 初代は76歳で現役だった。だからそれまでは負けられないと。すばらしい76歳ですね。応援しています。今日は本当にありがとうございました。

 

こぼれ話

 “釜師”のお宅を訪ねました。お茶席には欠かせない湯釜をつくる人です。つくるといっても、創作の世界です。

 訪問の朝には雪が降った。金沢には雪景色が似合うと思いながら、宮崎寒雉さんのお宅に着いた。思い描いていた通りに“凛”とした趣がある。どのような方なのだろうか。わくわくしながら通された小座敷で待つ。気配がして、柔らかな言葉と物腰で、まずはもてなしを受けた。そこでの短い言葉のやり取りのなかで、対談の糸口を見つけた。

 言葉には質量がある。質量は話者の趣となり、佇まいとなる。柔らかな言葉に明快な意思が込められている。「初代の技術に辿りつきたい」。技術の習得はわかりやすい。辿りつけたかつけないか、である。未だ道半ばと言う。「作業場を見せていただけますか」「どうぞ、それでは作業着に着替えたほうがいいですね」。

 雪景色の中庭の脇に通された。内部は、土の匂いが充満する作業場であった。380年の世界に踏み込んだ。ここであのずっしり重い鉄の塊が生まれるのだ。時をつなげる作業の不思議さを味わった。

Profile

宮崎 寒雉

(みやざき かんち) 昭和15年、金沢生まれ。江戸時代から続く、加賀藩御用釜師・宮崎寒雉の名を継ぐ14代目。大学を卒業して家業に入り、13代目の下職を務めた後、平成6年に「宮崎寒雉」を継承。数々の名品を生み出した初代寒雉の作風を受け継ぎつつ、14代目ならではの作品をつくり続ける。平成20年、裏千家より第6回茶道文化振興賞を受賞。また、平成26年には、金沢市の文化の振興発展に関し、とくに功績のあった人物に贈られるという金沢市文化賞(第68回)を受賞している。