“還暦ベンチャー”でも やり方次第で十分成功できる――第164回(上)

千人回峰(対談連載)

2016/07/14 00:00

成田 明彦

成田 明彦

セキュアブレイン 取締役会長

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一

週刊BCN 2016年07月11日号 vol.1636掲載

 成田さんのこれまでの歩みについてうかがっていると、ある法則性に気づく。最初の転職が39歳のとき、そしてアップルに5年間在籍して業績を伸ばした後、シマンテックにヘッドハントされたのが94年、49歳のときのことだ。さらに“アラ還”での起業はその10年後の59歳、10年ごとに新しいビジネスに挑まれてきている。半世紀にならんとするビジネスの足跡は、IT業界そのものの変化とまさにシンクロしている。(本紙主幹・奥田喜久男)

2016.4.14/東京・千代田区のBCN22世紀アカデミールームにて
 

 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第164回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

スマホの1000分の1の能力で月額1500万円の時代

奥田 コンピュータとの最初の出会いはいつだったのですか。

成田 大学を出て当時の日本ユニバック(現日本ユニシス)に入社したときですから1968年です。考えてみると、もう半世紀近くこの業界にいるんですね。

奥田 大学ではコンピュータを学ばれたのですか。

成田 私は文系ですし、当時は、理系でもコンピュータの講座などほとんどありませんでした。ユニバックに入社した頃は、パンチカードシステム(PCS)というのがこの業界の技術を表す言葉でした。それから4、5年経ってコンピュータという言葉が一般的になったのです。

奥田 学生時代、コンピュータに関わらなかったのに、どこでユニバックと接点があったのでしょうか。

成田 父親が紀州製紙(現・北越紀州製紙)におり、同社と取引関係のあるユニバックを紹介してもらったことが、この業界に入ったきっかけです。実はこのとき、他にメーカーと商社も紹介してもらい試験には受かったのですが、東京から離れたくなかった私は、地方に工場をもつメーカーや本社が大阪にある商社を回避し、一番仕事の内容がわからないユニバックを選んだのです。

奥田 コンピュータのコの字も知らないで(笑)。入社してからは、どんな勉強をされたんですか。

成田 まず「コンピュータとは何か」から始まり、営業職でもそれなりの知識をつけなければいけないということから、プログラミングのトレーニングを半年ほど受けました。その後は、先輩についてお客様のところに行くという形ですね。

奥田 当時はどのようにしてコンピュータを売り込んでいかれたのですか。

成田 米国ではすでに、企業がコンピュータを利用して大量のデータを処理しようという動きがありましたが、日本ではまだそこまで進んでおらず、給与計算など経理関係の仕事の処理が中心でした。

 手計算でやるとこれだけの人と時間がかかるけれど、コンピュータでやると何百分の一の時間で結果が出る。コンピュータは確かに高価だが非常に効率がアップして、長い目でみると経費削減につながると、そういう売り方でしたね。私が入社して4、5年は、競合はIBMだけで、サイクルタイムが速いとかメモリサイズはこれだけ大きいといったハードウェアのスペックの優劣を表現するというのも、当時のコンピュータの売り方の基本でしたね。

奥田 最初に売れたのはいつですか?

成田 入社3年目です。遅いように思われるかもしれませんが、だいたいそのくらいの年月がかかります。私が売った小型機でも、レンタル料が月額1500万円です。初任給が2万5000円とか3万円の時代ですからね。その高価なコンピュータのメモリが24キロバイト! いまのスマートフォンに入っているCPUの能力の1000分の1くらいしかないものがそれだけの値段でしたから、そう簡単に買ってもらえないんです。
 

訴求点はハードのスペックから業務改善の機能へ

奥田 そうした仕事はおもしろいものでしたか。

成田 おもしろい反面、コンピュータの必要性をわかってもらうのにものすごく苦労しましたね。大きなコストに見合うのかという問題があります。とくに私が担当していたのは製造業でしたから、間接的ではあっても原価に反映されるため、それがどれだけ利益に直結するかという効果をアピールするのは難しかったですね。

奥田 成田さんは営業の立場でコンピュータの市場を見続けてこられましたが、その節目のようなものはありましたか。

成田 まず、75年前後からハードウェアのスペックの競合からアプリケーションの競合に変わっていきました。単に速く計算できるということだけでなく、アプリケーションを使うことによって全体として業務改善ができ、お客様へのサービスが向上するといったことが求められるようになりました。オンラインバンキングなどはまさしくその例ですね。いちいち窓口で手続きするのではなく、リアルタイムに自分でお金の出し入れができれば待ち時間が短くなる。そういう分野でどれだけアプリケーションを提供できるかというように販売方法が変わってきたのです。

奥田 なぜ、変わったのでしょうか。

成田 先ほどの経理処理の話のように、コンピュータを単発の業務に使っても効果に限界がありました。そこで、ある程度コンピュータを使ったお客様が、業務全体をコンピュータ化していかないと投資に対する効果がはっきりみえないという認識をもったことが、変化の大きな要因だと思いますね。

奥田 次の変化は?

成田 分散処理への動きです。大型機による集中処理から、ワークステーションの登場により、それをネットワーク上で使うことによって処理を分散していくというのが次の大きな変化です。次がパソコンの登場です。ハードウェアの面から変化をみると、大型機による集中処理からワークステーションが出てきて分散処理的になり、パソコンが出てくると端末を中心にした業務処理に移行するというのが、コンピュータ利用の大きな流れなのだと思います。

奥田 ユニバックは、その流れに乗っていたのですか。

成田 私は85年に大阪営業所長を最後にユニバックを辞めるのですが、当時も米国のユニバックは大型機中心の方針でした。でも私たちのお客様には、大型機と端末機をオールインワンで買いたいというニーズがあります。何か問題が起こったとき、窓口を一本化したいからです。ユニバックが端末機をつくらないのなら、沖電気や三菱電機と手を組んでやりたいと米国本社に申し入れると、あくまで「大型機だけやれ」と。客先からは今でいうソリューション営業が求められていた訳です。

 大阪では川崎製鉄本社や近畿日本鉄道など大型機のお客様とおつき合いをさせていただきましたが、大型機しかできない営業のつらさというか、なかなか積極的な営業ができない点が歯がゆかったですね。端末機を含めた商談でないと、お客様はなかなか耳を傾けてくれないからです。こうした米国本社の考え方と日本側の考え方の違いにより800人もの幹部社員が辞め、私が退職する1年前にアルゴ21(現・キヤノンITソリューションズ)という会社を立ち上げるのです。(つづく)

「70歳からの青春」

 2015年にセキュアブレインの社長を退任し会長になられた成田さんは、ようやく愛車ポルシェのハンドルを握る時間がもてるようになったそうだ。まさに、第二の青春のはじまり。黒塗りの社用車の後部座席に座っているより、ずっと似合いそうだ。
 

Profile

成田 明彦

(Akihiko Narita)  1945年5月、三重県生まれ。68年、慶應義塾大学商学部卒業、日本ユニバックに入社。85年、アルゴグラフィックス入社。89年、アップルジャパン入社、営業部長として販売網の充実強化に務める。94年、シマンテック入社、代表取締役社長として日本市場でのブランド確立とセキュリティ市場におけるトップメーカー躍進の原動力となる。2004年、セキュアブレイン設立、代表取締役社長兼CEOに就任。14年、同社は日立システムズの完全子会社となる。15年6月、取締役会長に就任。