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いろいろな人に使われたことで、マスコミの醍醐味を味わえました。――第209回(上)

加藤和郎

加藤和郎

ミス日本協会 理事、能楽金春流シテ方桜間会顧問 日本の寺子屋副理事長

構成・文/浅井美江
撮影/長谷川博一

週刊BCN 2018年5月14日付 vol.1726掲載

 加藤さんは長くNHKで活躍された。経歴を拝見すると、そのボリュームと多彩な内容に圧倒される。入局された1965年から2006年の退局までをキーワードで挙げても、「あさま山荘事件」「つくば科学万博」「ウィンブルドンテニス」「放送衛星ゆり3号b打ち上げ」など、歴史的な項目が並ぶ。しかし、目の前の加藤さんは実におだやかで柔らかい。「頼まれるままにただ雑然と……」と微笑むばかりだ。加藤さんの仕事をこなす術は何なのか。(本紙主幹・奥田喜久男)


2018.3.14/BCN22世紀アカデミールームにて

ものごしと口調が仕事を呼んだNHK時代

奥田 実にいろいろな仕事をされていて驚きました。

加藤 普通に毎日きちんと番組をつくっていましたが、どういうわけかそれ以外の仕事がふってきますでしょ。それを受けるとまた次が、という繰り返し。でも、そのおかげでいろんな仕事をさせていただきました。

奥田 仕事ができる人には仕事が集まる。

加藤 いや、そうじゃなくて。僕が入った頃のNHKはいわゆる番組制作局と報道局は完全に別ものでね。報道局の人間にしてみれば報道がすべてで、チャラチャラと音楽やドラマをやっているのは民放みたいなものだというのがあったわけです。

奥田 そういう時ってやっぱり“民放”というんですか。

加藤 はい(笑)。例えば、人間国宝に内定された古典芸能の方がいらしてインタビューとなった時、社会部でもないし経済部でもない。誰か行ってこいとなると僕が行かされるわけです。それでうかがうと、ご本人が非常に喜んでくださって。

奥田 NHKさんが来てくれたと。

加藤 取材のあと祝賀会とかに呼んでくださって。それまでは存じ上げなかった方たちを紹介してくださるんです。そこで知り合った方が今度はウチの会に来ませんかと。

奥田 そうしてまたご縁がつながっていく。

加藤 でもご馳走になるとか飲みに誘われるというのはお断りしていました。ご挨拶だけはきちんとしますけど、深くは入り込まない。

奥田 なるほど、徹底しておられる。

加藤 あとは、仕事を振られるときに、ちょっとだけ礼儀がいいからあいつならまあ心配ないかな、みたいなところがあったかもしれません。宮内庁の式武官との出会いも話の内容ではなくて、口ぶりと仕草が受け入れられたのかなと思うことはありました。

奥田 その口調はお若い頃からですか。

加藤 子どもの時分からです。「女みたい」とからかわれたこともありましたけど。

奥田 でも変えずにいらした。

加藤 家庭でもこうでしたから、崩しようがなかったというか。自分は自分という気持ちが強かったのかもしれません。とはいえ、ヘンなヤツがいると思われないように、自分なりに工夫はしていましたね。例えば、長野の記者クラブ時代ですが、交通事故が起きて現場写真が必要になる。誰が撮っても同じだと判断された時などは、僕が各社のカメラを預かって行って各紙別にアングル変えて撮影してきて、「はい、どうぞ」って。

奥田 そういう努力もされてこられた。

加藤 そんなことも含めていろんな人に使っていただきました。かつて磯村尚徳さんというニュースキャスターがいらっしゃいましたでしょ。

奥田 覚えています。「ニュースセンター9時」でしたよね。ちょっとキザで(笑)

加藤 そうです。磯村さんは、記者が書いた原稿をアナウンサーが読むのではなく、実際に取材をした者が実感をもって自らリポートすべきだと、それまでのニューススタイルを一新する努力を身をもって進めていました。僕はそのころ長野にいましたが、ある原稿が磯村さんの目にとまりましてね。

奥田 どんな原稿だったんですか。

加藤 善光寺の稚児行列の取材でしたが、白粉と紅で化粧されて着飾った稚児たちが歩き始める前におしゃべりしているんですが、「腕白盛りの子どもたちも、今日ばかりは時代を超えた優雅な会話のひとときです」みたいなことを入れたんです。

奥田 いいですねえ。

加藤 ところが当時は、ニュース原稿は事実をストレートに書くべきだという時代だったので、長野局のデスクには「こんなの原稿じゃねえだろう」と言われたんですが、そのままNC9で伝えたら、磯村さんが「こういう取材者の実感が必要なんだよ」と言ってくれて。それ以来、長野で何かあると名指しでよく使ってくれました。

遊軍的な立ち位置から得たマスコミのおもしろさ

奥田 不思議な肩書きもおもちです。全米パラシュート協会終身会員……。パラシュートおやりになるんですか。

加藤 いえいえ、ソウル五輪の時に衛星放送の担当デスクでしたが、開会式にインパクトのある絵がほしいといわれまして。たまたま、ノーマン・ケントというスカイダイビングカメラマンを知っていたので、5か国のパラシュート部隊がスカイダイビングで五輪を描き、それを彼が真上から撮影するのはどうかと提案して実現しました。しばらくしてから、米国大使館に呼ばれて行ったら、終身会員ですと(笑)。今でも毎月、自宅に「Parachutist」という機関紙が届きます。

奥田 放送衛星の打ち上げにも立ち会われています。

加藤 1991年に種子島で「ゆり3号b」の打ち上げに立ち会いました。先のとがったナイフのようなロケットは、あっという間に空の彼方に消えるものだとばかり思っていましたが、とんでもない。バリバリ、バリバリと大気の層を打ち破っていくんです。“圧”がかかって身体がしびれました。忘れることができない体験で直後に拙いのですがこんな歌を詠みました。「大気裂きて雄姿飛翔す種子島 静寂(しじま)戻りて歓声ぞ湧く」

奥田 そういうことをすべて楽しんでいらっしゃるんですね。

加藤 何をするにも億劫がる自分がいるんですが、いざ、現場に立つとその場の空気に取り込まれてしまう。染まりやすいのかな(笑)

奥田 いろんな経験ができるってマスコミの醍醐味ですよね。

加藤 その通りだと思います。でも政治部や経済部の記者だとどうでしょうか。遊軍的な立場にいることの面白さかもしれません。

奥田 あ! それです。「遊軍」。加藤さんと話をしていてまさにその言葉が浮かんでいました。常に仲間の遊軍をされる人なんだなと。

加藤 言い換えると「すきま」になっている部分を埋めるのが仕事です。遊軍的な仕事は、最初は与えるほうも大丈夫かなと思いつつも降ってくるんです。受けるこちらも、できるかどうか半信半疑ながらも何とかやり遂げる。すると、疑問形の仕事がまたやってくる。考えようによっては、パワハラに近い仕事が多いのですが、雑用承りに徹すれば、普通では考えられない体験ができるわけで、遊軍は贅沢ですよね。フリーランスじゃないとできないようなことをNHKにいながら動かせてもらいました。

奥田 加藤さんは最後に勝利者になるタイプの人ですよね。

加藤 失敗すれば、仕事を振ってくれないということからすれば、マラソンで言うところの完走者ぐらいにはなっていたと思います。

奥田 いろんな人に使われたことはよかったと。

加藤 ええ、メディアに入った意味があったと思いますね。

奥田 メディアといえば、NHK情報ネットワークにいらした時は『I-Media』という月刊誌で編集長もされています。

加藤 ニューメディアが潮流になり始めたころ「情報化メディア懇談会」という異業種交流会があったのですが、ひと頃の熱が冷め始めたため上層部から、「加藤、会を閉めてくれないか」と担当にさせられました。でも、100社ほどの会員がいてもったいないので、会の目的を“ビジネスと文化が出会う交流会”に変えて、講師をそれまでの経営者や経済学者に加えて、宮内庁の式部官長や山口百恵をスターにした酒井政利プロデューサー、日本舞踊の花柳寿楽さんなどにお願いして継続したんです。それまで出していた季刊誌も月刊にして図書コードを取り、各大学へ寄贈しました。

奥田 『I-Media』の名称はiモードが世に出る前なんですよね。どこから思いつかれたんですか。

加藤 メディアの軸になるのは何かと考えた時に、インフォメーション、インタラクティブ、アイデンティティ、イメージ、アイデアなど、“I”で始まる言葉が多いですし、なにより漢字にすれば「愛」ですから、これはいいなと思いまして。

奥田 商標登録しなかったんですか。

加藤 しませんでした。その後iモードの発売で一気にIがつく言葉や社名が増えて、本家のつもりのこちらが「真似したね」とか言われましたけど(笑)

奥田 いや、目のつけどころがさすがです。
(つづく)
 

放送衛星の打ち上げ立ち会いから
ソウルオリンピック開会式の演出まで 

 加藤さんが関わった番組にまつわる品々。左から時計回りに→放送衛星ゆり3号b打ち上げの様子→毎日曜24時間スポーツ番組「Be☆Spo24」の番宣シール。文字は加藤さんの手書きによるもの→その下の会員証はソウルオリンピック開会式の演出協力により、全米パラシュート協会から贈られた終身会員証。
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第209回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

加藤和郎

(かとう かずろう)
 1943年東京生まれ。NHK長野局在勤時の72年に「浅間山荘事件」を取材。10日間のニュース映像と強行救出10時間生中継で構成した「軽井沢の連合赤軍」でカンヌ国際ルポルタージュコンクール審査員特別賞を受賞。77年から本部報道局で、「ニュースワイド」「ゆく年くる年」などの総合演出。衛星放送開始に伴い、ウィンブルドンテニス中継など、ワールドスポーツ番組を開発。BS1副編集長、衛星放送局編成チーフプロデューサーを経て、NHK情報ネットワーク・企画事業部担当部長。「I-Media(情報メディア懇談会)」を主宰するとともに、各種イベントの企画・演出にあたる。モンゴル国カラコルム大学より名誉博士号を授与される。2004~18年、名古屋学芸大学造形メディア学部教授。現在はミス日本協会理事、能楽金春流シテ方桜間会顧問など。