日本のサイバーセキュリティーの世界で、ゼロからイチを生み出す――第228回(上)

千人回峰(対談連載)

2019/02/21 00:00

鵜飼裕司

鵜飼裕司

FFRI 代表取締役社長

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子

週刊BCN 2019年2月18日付 vol.1764掲載

 かつて鵜飼さんは早熟なプログラミング少年で、小学生のうちに自作のプログラムを雑誌に投稿して賞金稼ぎをしていたというから驚く。その雑誌名は『マイコンBASICマガジン』。実は、私がBCN創業前に籍を置いていた電波新聞社がその発行元なのだ。そうした縁を鵜飼さんにお話しすると、「それはたいへんお世話になりました」と。その賞金稼ぎをしていた少年が、いまや日本におけるセキュリティー分野の第一人者とは感慨深い。今回の対談は、もしかすると世のお父さん、お母さんの参考になるかもしれない。(本紙主幹・奥田喜久男)

2018.10.25/東京都渋谷区のFFRI本社にて

ゲームをやりたい一心でプログラミングをマスター!

奥田 私はセキュリティーのことには不案内で、難解なイメージしかないのですが、鵜飼さんはこの世界では日本の第一人者だとうかがいました。

鵜飼 政府関連のプロジェクトなど、いろいろなところに呼んでいただいていますが、第一人者かどうかは……(笑)。

奥田 はじめてコンピューターに触れたのは、いつ頃ですか。

鵜飼 小学校5年生くらいですね。当時、MSXというパソコンがあって、それをいじったのが始まりです。いまは経営に携わっていますが、35、6歳になるまでは、ほとんど毎日、趣味であれ仕事であれ、何かしらプログラミングをしていましたね。

奥田 どんなご家庭の環境だったのですか。

鵜飼 父親が、自営の電気工事士だったんです。小さい頃から身の回りにエレクトロニクス系のモノがあふれていました。あまり記憶に残っていないのですが、ドライバーでいろいろなものを勝手に分解し、親父からは、「分解するのはいいけどちゃんと元に戻せ」と怒られていたようです。家の中に『トランジスタ技術』という雑誌が何冊もあったので、そういうもので勉強しながら電気回路の工作をしたりしていました。

奥田 お父さんの影響で、ものづくりに目覚めたと……。

鵜飼 よく仕事の現場に連れて行かれて「そもそも交流と直流の違いは……」みたいなことを、小さいときから叩き込まれました。よく「ここを接触させるとショートするから危ない」とか言われるじゃないですか。そうするとやってみたくなる(笑)。火花を散らして、父親に怒られたことがけっこうありましたね。

奥田 私にも同じような経験があります(笑)。

鵜飼 そういう環境で育って、ファミコンがめちゃくちゃはやったときに親にねだったら、いまはパソコンというものがあるから、それでゲームをつくればいいじゃないかと言われました。ファミコンよりパソコンのほうがずっと高価だったのですが、それでも親はパソコンを買い与えてくれたんです。

奥田 それがMSXパソコンですか。お父さんには先見の明があったんですね。

鵜飼 ただ、父親は電気回路などには詳しいのですが、パソコンのことは全然知らなくて、この箱があれば簡単にゲームがつくれると思っていたようなんです。ところが、私が実際にやってみると、ゲームをつくるのはけっこう大変なことだと気づきました。そこから、パソコン雑誌などでいろいろと勉強し、プログラミングができるようになったんです。

奥田 あの当時の小学校5年でプログラミングですか。MSXのマニュアルもだいぶ難解でしたよ。

鵜飼 正直、難しいですよ。プログラミングに関連する事柄はあまりマニュアルには載っていなかったのですが、ゲームをやりたいという気持ちがすごく強くて、ゲームのコードが載っている雑誌を買って、ひたすらそれを入力しまくるということを繰り返していたんです。そうしているうちに、いつの間にかBASICを覚えて、小6の頃にはマシン語でコードを書くようになりました。自作のプログラムを雑誌に投稿して掲載されると、一回1万円ほどもらえました。そのお金を元手に、パソコンをアップグレードしていったんです。

奥田 それはすごい!

いま、世の中にないものをつくっていきたい

奥田 中学校に入って、そういうプログラミングの話ができる友達はいましたか。

鵜飼 いませんでした。だから、私は高専に進みました。

奥田 なるほど。BCNでも「高専プログラミングコンテスト」の入賞者を毎年表彰していますが、高専生はみんな熱心で優秀ですね。

鵜飼 中学校を出て、普通科高校に行って受験勉強するのもしんどいなと思って、地元徳島の阿南高専に行こうと思ったのですが、当時は情報工学科がなくて、隣県の香川にある詫間電波工業高専(現・香川高専詫間キャンパス)に進んだのです。

 それまでは一人でプログラミングをしていたわけですが、高専に入学すると好きな人がたくさんいるので、そうした話ができます。授業が終わったらすぐ電算室で、そして寮の部屋に戻ってもずっとやっているという生活でした。

奥田 そうした場では、思い切り自分の好きなことができる、と。

鵜飼 そうですね。それで、3年生くらいまではゲームをつくって投稿していたのですが、4年生くらいからは先生のつてで、企業の請負開発をするようになり、そこから視野が大きく広がりました。

奥田 学生なのにプロの世界に足を踏み入れたということですか。

鵜飼 先生は日立系企業の出身の方で、企業とのつながりもあったんですね。このときは簡単なOSをつくったり、音声合成や音声認識のソフトウェアをつくったりしていました。いまでいうVoIP、つまりアナログ電話の音声をデジタルに変換してインターネット回線に流し、それを再びアナログ変換して相手に伝えるというものです。そのプロトタイプができたのが高専の5年生、Windowsが出始めた頃のことですね。

奥田 ほぼ、パソコンの歴史とともに歩んでこられたような感じがしますね。それと同じように自分の実力もレベルアップしてきた、と。

鵜飼 いわゆるマイコンの時代は知らないのですが、パソコンの時代になってからはおっしゃる通りかもしれません。

奥田 プログラミングのほかに、何か趣味は?

鵜飼 中学校時代からバンドをやっていました。

奥田 どんな楽器を?

鵜飼 ロックバンドでは、ドラムとキーボードですね。吹奏楽もやっていて、こちらはトランペットがメインでした。

奥田 じゃあ、楽譜をパソコンに取り込んだりしたんですか。

鵜飼 それもやりました。いまでいうDTMです。ゲームをつくるときにも音楽が必要なので、それでよく作曲していました。

奥田 多才ですね。ところで、ゲーム作家になろうとは思わなかったのですか。

鵜飼 小さいときは憧れましたが、高専に入ってからは、新しいものをつくるのが面白いなと思うようになりました。

奥田 新しいものとは?

鵜飼 研究開発で、いままでの世の中にないものをつくっていきたいという思いが、すごく強くなったんです。

奥田 その思いが現在のビジネスにつながっていくわけですね。
(つづく)

愛用のFILCOのキーボード

 底面が鉄板で、表面がアルミ製のとても頑丈なキーボードは鵜飼さんのお気に入り。もう十数年前から使っているが、おそらく一生壊れないだろうとのこと。もしこれで人の頭を殴ったら、おそらくただではすまない……らしい。
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第228回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

鵜飼裕司

(うかい ゆうじ)
 1973年2月、徳島県生まれ。93年3月、詫間電波工業高等専門学校卒業後、徳島大学工学部知能情報工学科に編入、2000年3月、同大大学院工学研究科博士課程修了。博士(工学)。Kodak研究開発センターにてデジタルイメージングデバイスの研究開発に従事した後、03年に渡米。eEye Digital Security社に入社。セキュリティー脆弱性分析や脆弱性診断技術、組み込みシステムのセキュリティー脅威分析等に関する研究開発に従事。07年7月、セキュリティーコア技術に関する研究、コンサルティングサービス、セキュリティー関連プロダクトの開発・販売を主事業とする株式会社FFRIを設立する。独立行政法人情報処理推進機構非常勤研究員のほか、多数の政府関係プロジェクトの委員、オブザーバーを歴任。第13回「情報セキュリティ文化賞」受賞。米国BlackHat Conferenceの審査員も務める。