「してもらう」よりも「してあげる」が心地よい――第346回(下)

千人回峰(対談連載)

2024/03/29 08:10

中林傑

中林傑

編集者

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子
2024. 3.5/東京都千代田区のBCN会議室にて

週刊BCN 2024年4月1日付 vol.2008掲載

【内神田発】この「千人回峰」の第1回は、2007年1月5日付の、元GE副社長千葉三樹さんへのインタビューだった。私は業界内外を問わず、興味ある人物の記事や情報をスクラップして、いつかインタビューしようと考えていたのだが、「それならば、対談企画を連載すればいいのでは」と勧めてくれたのが中林さんだった。ちなみに、中林さんの出身地は島根県の奥出雲。伊勢の大学を出て、神職の資格を持つ私にとっては本来「敵」の縄張りの人なのだが、実に力強い味方となってくれたのだ。
(創刊編集長・奥田喜久男)

2024. 3.5/東京都千代田区のBCN会議室にて

破天荒な父と堅実な母
苦労知らずで育った幼少時代

奥田 「千人回峰」では、“人とは何ぞや”の解を求め続けているんだけど、それぞれの人格形成には、子どもの頃にどんな過ごし方をしてきたかが大きく関わっていると思うんだよね。中林さんはどんな少年でした?

中林 ずいぶん後になって知ったんだけど、母の実家は庄屋で結構大きな家だったらしい。父方の祖父は町の助役をやっていて、そこそこ羽振りがよかったと聞いたことがあります。私が小学1年生の頃、警察官だった父がある事件でけがをしたのを機に退官し、島根県奥出雲町(旧仁多町)の実家に戻ることになった。引っ越してみてびっくり。まるで掘っ立て小屋のような家だったんです。というのも、昭和20年の春、大風が吹き荒れた日に町内の1軒から火が出て、町が丸ごと焼けてしまったから。

奥田 まるで空襲を受けたみたいな……。

中林 そう、盆地だから1軒残らず焼けてしまって。でも、男ばかり5人兄弟の末っ子だった父が跡を継ぐことになって、何とかお金を工面して家を建て直しました。それからは、父はいろいろな商売に手を出しました。文房具屋を始めたかと思えば、雑貨店、下駄屋と続いて、パチンコ店、バーなどをやったけど、どれも長続きしない。警察官だった父が始めた商売だったので、武士の商法を地でいったようなものです。でも、不思議なことにどこからかお金を工面してきていましたね。

 「お父ちゃんは好き勝手ばかりやって」と、妹はよく愚痴をこぼしていたけれど、私にとっては大切な存在でした。心の支えになっていた気がします。

奥田 家計は誰が支えていたの?

中林 母です。私が物心ついた頃から保健師の仕事をやっていて、ホンダのスーパーカブで地域の家庭を訪問し、健康相談を受けていました。定年まで勤めてくれた母のおかげで、地元ではなく松江市内の高校に進学させてもらいましたし、大学にも行かせてもらうことができました。

奥田 あなた自身はどんな子どもだった?

中林 いわゆる“田舎のガキ”でしたね。小・中学生の頃は、いつも仲間と一緒に山を駆け回っていました。高校時代も勉学に励んだ記憶はありません。振り返ってみると、幼い頃からずっと、苦労知らずで育ってきたと思います。

奥田 だからいつも、のほほんとしていたのね(笑)。

中林 そのせいかもしれないけれど、人に何かを「してもらう」よりも「してあげる」ことに喜びを感じるタイプでした。たぶんそれは、母の遺伝子なのでしょう。

奥田 私も「してあげたい派」だと思う。BCNを立ち上げたときから、「ものづくりの環」というモットーを打ち出しているのはその一つの現われです。つくる人、売る人、使う人のそれぞれが豊かになるという近江商人の“三方よし”の精神が根底にある。「千人回峰」の紙面の右下にも毎号、掲げているでしょう。

中林 「してあげたい」の流れで言うと、この欄の記事執筆を担う小林茂樹さんを紹介したのは私ですよ。彼が日本実業出版社の書籍部門から独立してライターとして活動して間もない頃だったと記憶しているけど……。

小林 おかげさまで、書き手としてずいぶん鍛えられました。さまざまな分野で活躍している方々と接することができてとても勉強になりましたし、奥田さんのインタビューの「間合い」からも学ぶところは多かったですね。
 

「終活」なんてつまらない
これからは「生き活」だ

奥田 ところで、今はどんな仕事をしているの?

中林 一つはこの「千人回峰」の記事校閲です。小林さんと同じく、毎回、刺激を受けています。もう一つは、地元の住宅会社で、広告関連の仕事と「ホームコンシェルジェ」という肩書でお客様の家づくりのお手伝いをしています。

 私が、家を建てたのは2010年のことでした。妻が喘息に悩まされていたので、家を建てるなら健康を害さない建材を使いたいと考えていたところ、漆喰と無垢の木という自然素材で建築する無添加住宅のアンジコアという会社に出会い、第一号顧客となりました。

 BCNを辞めてぶらぶらしているときに、同社の専務(社長夫人)がわが家を訪れて、「中林さんは出版社におられたから広告にも詳しいでしょう。手伝ってもらえませんか」と。それと、オーナー(顧客)だから今住んでいる家の良いところも悪いところもよく知っているはずなので、それを新しいお客様に伝えてほしいとも。こんな経緯で、自宅からクルマで30分ほどの千葉県君津市の山中にある「もくもく村」という住宅展示場に勤めることになりました。

奥田 「もくもく村」には、以前、千人回峰の取材で訪れたことがあるね。

中林 その会社で、最近、おもしろいことを始めたんですよ。僕も奥田さんも今年で75歳。後期高齢者ってやつになりました。

 会社勤めの人は定年を過ぎると、やることがなくて、庭いじりなんかに走る。私もそうでした。で、墓はどうしようとか相続はどうしようとか、いわゆる終活を考える。でも、今や“人生100年時代”です。残りの人生をボーっと生きていくのではなく、高齢を「幸齢」ととらえて、これからこそ活発に充実した人生を過ごそうという趣旨で「生き活研究所」というNPO法人を立ち上げました。動き出したばかりなので、実績は紹介できませんが、最初の回では「夢」をテーマに語り合う場をつくります。

奥田 面白いことをやっているんだね。

中林 この活動を始めたのは、あるお客様の話を聞いたからです。その方は76歳で、最初は孫の家を建ててやりたいとおっしゃっていたのですが、話を聞いているうちに、今住んでいる古い家を壊して建て替えたいという考えに変わってきました。さらに、「大学の工学部で学んでいた頃からクルマ好きだったので、いつか自分で設計した自動車をつくってみたい」と夢を語ります。その要望を受けて、研究室を新築邸の隣に建てる段取りに進みました。

 夢を実現しようとしている人は、どんどん元気になってきます。そして、こうした取り組みに関わる私自身、元気になっていくような気がするんです。

奥田 それはいいね。同い年の盟友が新たな試みにトライしているとなると、私もうかうかしてられないなぁ。

中林 そうですよ。奥田さんはこれまでにいっぱい花を咲かせたけど、もう一花咲かせなければ!

奥田 う~ん、肩書を外してようやく自由になったのに(笑)。でも、今日は久しぶりに語り合えて、とても楽しかったよ。
 

こぼれ話

(中林傑記す)奥田さんからメールが届いた。「今度の“こぼれ話”は中林さんと2人で書きませんか」と。いつもはインタビュアーが記事の締めとして登場人物にまつわるエピソードを記述する欄である。異例なかたちだったが、黒子役を務めてきた編集者が書いていいのかなと思いつつも、「いいですよ」と返信した。

 引き受けたものの、いざ書くとなるとエピソードがありすぎて、どれを題材にするか迷ってしまう。あまり気負わずに、BCN勤務時代に垣間見た「奥田喜久男像」の一端を紹介してみよう。

 お昼どき、社長室から内線電話がかかってくる。電話の主は奥田さん。「メシ、行こうや」。毎日のように、男2人が連れ立って、昼食に出かけていた。今になって思えば、昼休みの1時間とはいえ、社長を独り占めすることになっていたので、他の社員のなかにはおもしろくないと感じる人もいたのではないかと反省している。

 奥田さんがその日の話題をふってきて、私はもっぱら聞き役であることが多かった。話の内容は他愛のないものが中心だが、時には会社経営に関する課題や悩みを打ち明けられることも。ビジネス書の出版社に勤めて、中小企業のオーナー経営者に取材する機会が多かった私は、見聞したことを伝えたりすることもあった。当時、よく話題にのぼっていたのは、後継社長をどうするかということだった。IT業界でも後継者問題に悩む経営者が多く、お互いが胸の内を打ち明ける機会があったようだ。同じような時期に起業した会社が大半なので、2代目をどうするかは共通した悩みだったのだろう。
(奥田喜久男記す)中林さんとのつき合いは40年を超える。それもそのはずで、1981年の『週刊BCN』の創刊以前からだ。当時はフリーライターとして、中林さんが編集している月刊の経営雑誌に寄稿していた。1年の連載企画だから、フリーという私の立場からすると、こんなありがたい仕事はない、という執筆依頼だった。

 一般的に読者が目にする記事は、執筆者の名前とタイトルを見て興味を引くかどうかを判断材料にされることが多い。記者が書いた1本の記事が読者の目に触れるまでには最低でも5人が関わっている。デスクに届いた記事を編集者が原稿整理(チェック)し、校正の作業を経て印刷に回され、読者が目にする文章となる。このことをさらに突き詰めると、表に名前の出ない編集者集団がメディアの質の“源”ともいえる(もちろん、記者が良質の記事を書くというのが前提だが…)。

 私の尊敬する編集者がいる。野平健一氏。新潮社の編集部で太宰治を担当し、あの玉川上水の現場に立ち会った方だ。生涯を黒子役に徹し、退職前に一冊だけ自分のための書籍を社命により新潮社刊で上梓された。出会いとは不思議なものだ。出会えるはずもない人と、ふとしたきっかけで出会う。この人が太宰治を見守り、支え、育て、「太宰治文学を世に残したひとり」なのだ。その書籍を筆者から直接に手渡していただいた。舞い上がるほどに嬉しかった。野平さんの本には、「これでおいらも浮かばれる」と記されていた。編集者冥利に尽きるということなのか。

 さて、私の明日はどうなるのだろうか……。(直)
 
小林・中林のコンビが千人回峰を支えてくれている

 

心に響く人生の匠たち
 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

<1000分の第346回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

中林傑

(なかばやし まさる)
 1949年1月、島根県奥出雲町生まれ。県立松江南高校を卒業し、同志社大学法学部へ入学。72年、日本実業出版社に入社。雑誌編集部に所属し、営業・総務経理・経営それぞれのビジネス分野3誌の編集長を歴任した後、2006年、BCNに移籍。週刊BCN編集部のデスクとして記事全般の校正・校閲業務に携わる。しかし強度の腰痛のため、15年には心ならずも退職。その後、地元の住宅会社アンジコアに勤務しながら、この「千人回峰」の制作にも関わっている。