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脈々と受け継いできた地図づくりのDNAが60年余りの歴史を支える――第336回(下)

千人回峰(対談連載)

2023/09/29 08:05

塚田野野子

塚田野野子

東京地図研究社 代表取締役社長

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2023.5.11/東京都府中市の東京地図研究社本社にて

週刊BCN 2023年10月2日付 vol.1986掲載

 【東京・府中発】「職人気質」という言葉には、少しネガティブなイメージがあるような気がする。再現性がない、閉鎖的だ、組織に順応しない、などなど。かつて地図をつくってきた人々は、程度の差こそあれ、それぞれが職人的であった。塚田さんは、そうした会社の姿を見て、情報共有が足りないことに気づく。でも、創業者である父君をはじめとする先達の職人的な修練の集積が、会社のDNAを形づくっているのも事実。おそらく、それが新たなイノベーションと融合したとき、たしかな強みを発揮するのだろう。
(本紙主幹・奥田芳恵)

2023.5.11/東京都府中市の東京地図研究社本社にて

米国で学んだことで
情報共有の重要性を改めて知る

芳恵 塚田さんは米国に留学され、MBA(経営学修士)と地理学修士の学位を取得して、1994年に会社に戻られたわけですが、そこで持ち帰ったことはどんなことだったのでしょうか。

塚田 知識や技術そのものを自身のものとすることも大事ですが、情報をシェアすることの重要性に気づいたことです。つまり、米国に行ってみて、自社の情報共有する意識の不足と、環境の貧弱さを実感しました。

芳恵 情報のシェアですか。

塚田 地図製作の仕事は職人的な色合いが強く、個別・属人的に経験値を蓄積している状況が多くみられました。でも、そうした経験や技術に関する情報を狭いエリアに閉じ込めるのではなく、関係者全体で共有するほうが、組織として強みを発揮できるということです。そうしたことを、創業者である父や先代社長(国土地理院出身の入江光一氏)に提言しました。

芳恵 職人的な世界だと、どうしても情報を抱え込んでしまう傾向があるのでしょうか。

塚田 そうですね。父が社長を務めていた時代には、ある程度熟達した技術者には余計な情報を入れず、集中してやってもらえばいいんだという考えもありました。

芳恵 かつては、その職人的な仕事の進め方が、当たり前だったと。

塚田 でも、これからはそういうスタイルでは行き詰まると考え、企業としては当然のことですが、仕事について何か問題が起こったら報告し、それを関係者全体にシェアすること、それぞれの仕事の特徴や顧客情報、セミナーなどで得た技術情報などについても同様にシェアすることを徹底しました。

芳恵 留学中にどのようなことから、そうした気づきを得たのですか。

塚田 米国では、孤独に勉強や研究をすることには限界があります。自分の持っている情報や知見をシェアすることで初めて、その分野が得意な人から情報がもたらされたり、先生から指導を受けられたりするわけです。何も言わないと何も始まらず、「察してくれ」は通用しません。日本人は往々にして内に閉じこもりがちですが、それではダメだということを実感したのです。また、米国の大学院生活では身をもってデジタル・デバイド(情報格差)を感じました。当時、TA(ティーチング・アシスタント)やRA(リサーチ・アシスタント)ならば、大学のアカウントが付与され、さまざまな情報収集や遠方の研究者ともメールのやりとりなどが可能でした。ただ、一般の大学院生には使えなかったので、TAの友人の環境は大変うらやましかったです。ようやく、メリーランド大学での2年目、自分もTAになってアカウントができて世界が100倍広がりました。日本に帰ったら、会社にインターネットの環境を整備して、社員が情報を有効に利用できる組織にしようと強く思ったものです。

会社の大きな分岐点となった
デジタルへの移行

芳恵 60年以上の歴史があると、技術的なことを含めいくつか分岐点があると思いますが、大きなトピックとなったものにはどんなことがあるでしょうか。

塚田 技術的なところでいえば、アナログからデジタルへの転換が一つの大きな分岐点になったと思います。アナログの時代にも、ペンや烏口を使った墨製図手法からスクライブ(削刻)手法への技術革新がありましたが、やはりデジタル化は大きな波でしたね。

芳恵 どのような形で、デジタル化を進めていかれたのですか。

塚田 当社がコンピューター入力による地図の作成を始めたのは89年のことですが、そのきっかけとなったのは、大手測量会社からの提案でした。

 ただ、デジタル化を実現するには、VAXという当時のミニコンや大きなプロッター(出力機)を導入する必要があり、人材についてもこれまでのアナログ手法で地図製作にあたっていた技術者たちがスムーズにデジタルに移行できるかという問題がありました。

芳恵 ひと口にデジタル化といっても、設備投資の問題と人の問題があると。そこでは、大きな経営判断が求められたのでしょうね。

塚田 当時、私は米国に留学しており、後から聞いた部分もあるのですが、父は、これも時代の流れであると決断したということです。実際、このデジタルへの移行ができなければ、現在の当社はなかったと思います。

芳恵 そうした大きな分岐点で、地図製作の業界としてはどんな変化がありましたか。

塚田 なかにはデジタルへの投資によって経営が立ち行かなくなった会社もありましたが、半面、新規参入してくる異業種の会社も増えました。

芳恵 デジタルだと参入しやすいのですか。

塚田 かつては、地図に特化した職人の技術が求められましたが、デジタル化によってそのハードルが下がったことはたしかですね。

 それまで国土地理院の地形図を手がけることができたのは10社程度でしたが、ラスタデータ(ドットのデータ)による編集ができるところは20社ほどになり、その後、ベクタデータ(線のデータ)の時代になると参入企業数はその3~4倍になりました。

芳恵 新規参入企業が増えて、競争が激しくなるなか、60年という長い歴史を刻んでこられたポイントはどんなところにあるのでしょうか。

塚田 脈々と地図のDNAが受け継がれ、時代の変化とともに進化してきたことではないでしょうか。たとえば、創業者の父が得意だった等高線や陰影などを駆使する地形表現技術や地図のセンスは当社の柱として受け継がれ、デジタル標高データと技術を利用して作成した凸凹地図シリーズや特許を取得した多重光源陰影段彩図などのブランドを生んでいます。また、GISのスペシャリスト集団としてさまざまな分野の課題解決にフットワーク軽く対応している実績がお客様からの信頼につながっていると思います。

芳恵 職人の技術の比重が下がってきたとはいえ、そこにはやはり目に見えないプロのセンスが重要で、それが差異化につながっているのですね。

 ところで、これからの地図製作の業界はどのように変化していくと思われますか。

塚田 3D都市モデル、スマートシティ、自動運転、防災、移動支援など、さまざまなニーズに応えるため、GISソリューションの中で地図データは情報のプラットフォームとして利用が広がっていくと考えています。その一例が、意思決定のベースとしての地図データの活用です。

芳恵 意思決定のベースというのは、どんなことをイメージすればいいでしょうか。

塚田 いわゆるマーケティングでの立地分析や適地選定、防災の分野ですと自治体が災害の避難場所をつくろうとするとき、地形データやその地区の過去の履歴、土地の条件といった情報を地図に重ね合わせて検討し、最適な場所を選定することなどです。ハザードマップやバリアフリーマップなどの作成や各種のシミュレーションなどもそうですね。

芳恵 地図にさまざまなデータを重ね合わせることで、問題解決につなげていくのですね。

塚田 これからは、位置情報をキーにしたさまざまな分析、データ作成の強みを生かし、地図、IT系の会社との共創により、多様な空間情報社会の課題を解決し、安心・安全な暮らしを守るためのソリューションを提供していきたいと考えています。みなさまとともに成長し、当社のファンを増やしていきたいです。

芳恵 地図情報には、いろいろな可能性があるのですね。今後の展開も楽しみにしております。
 

こぼれ話

 雷鳴が轟き、ひと暴れしそうな雨空を見上げ、さっと東京地図研究社社屋の軒下へと駆け込んだ。1988年に建てられた社屋は少し年季を感じるが、社内は清掃が行き届いて整理整頓されている。それもそのはず、社員全員で毎日掃除をするのが決まりなのだそう。壁に貼られた手作りのお掃除当番表に従い、2人一組で決められた場所を掃除する。新入社員も役員も関係なく振り分けられていて、もちろん社長の塚田野野子さんも掃除に参加している。
 

 今回の対談相手は、経営者でありながら大学でGISの講師も務められていて学究肌というのが事前情報だった。「さて、先生の講義に付いていけるか…」と少々不安に感じていたのだが、塚田さんから熱心に語られたのは、意外にも情報を共有し組織として強くあることの重要性であった。掃除もそのための仕掛けとして大いに役立っている。普段は関わりの少ない部署の社員との良い交流の場になっているとのことである。

 私の幼少期を思い起こすと、運転する父と助手席で紙地図を見ながらルートを確認する母。家族でドライブをする時の音声ナビゲーターはいつも母だった。しかし今は、カーナビがその役割を完璧に果たしていることから実感できるように、地図製作の業界はデジタル化の流れの中で大きな変化を遂げた。製作方法は一変し新規参入により競争も激化したが、協業相手は多種多様になり、職人が手掛けてきた紙地図からは想像できないコラボレーションが生まれている。もくもくと湧き上がってきた新しい発想を、誰かとシェアすることで具体化し実現させていく。職人気質な社内にこの考えを早くから取り入れ根付かせたことが、60年の歴史を重ねることができた大きな要因の一つになったのだろう。位置情報にどのような付加価値を付けるか…。広がる可能性に楽しくチャレンジを続ける塚田さんの精神は、しっかりと社員に伝播している。歴史と確かな技術とオリジナリティを生かして、今後も社会に貢献していかれることだろう。

 ちなみに、写真に写る同社オリジナルマスコットキャラクター「decoちゃん・bocoちゃん(凸凹ちゃん)」は、社員によるデザインでぬいぐるみも手作りなのだそう。愛くるしい表情と絶妙な緩さで、私たち取材クルーを終始癒やしてくれていたのだった。(奥田芳恵)
 

心に響く人生の匠たち
 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第336回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

塚田野野子

(つかだ ののこ)
東京・杉並区生まれ。1982年、慶應義塾大学法学部卒業後、東京地図研究社に入社。国土建設学院で1年間測量技術を学び社業に携わる。89年、米ジョージ・ワシントン大学経営大学院修士課程に留学。MBA取得。91年、米メリーランド大学地理学科修士課程に入り、地理学修士号取得。94年、帰国。慶應義塾大学環境情報学部訪問研究員、国土地理院部外研究員などを経て、99年、同社代表取締役社長に就任。工学院大学非常勤講師も務める。