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小さな村が緩やかに連携し なおかつ都市ともつながっていくことが大事――第330回(下)

千人回峰(対談連載)

2023/06/23 08:05

小村幸司

小村幸司

小さな村総合研究所 代表理事

構成・文/小林茂樹
撮影/大星直輝
2023.4.14/山梨県北都留郡丹波山村の「小さな村総合研究所」にて

週刊BCN 2023年6月26日付 vol.1974掲載

 【山梨・丹波山村発】小村さんの話をうかがっていて、気づいたことがある。何か新たなことに挑戦するとき、人はなんらかの衝動に突き動かされて行動し、自らを変化させているということだ。小村さんは、多面的な視点からトライ&エラーを繰り返し、冷静かつ着実に一つのプロジェクトを具体的な形にして成立させている。おそらく、金融機関での実務的な知識やテレビディレクターとしてのモノづくりの経験など、さまざまな“知恵”の集積と持ち前の熱意、そして他者に対するリスペクトの念が、それを可能にしているではないかと思った。
(本紙主幹・奥田芳恵)

2023.4.14/山梨県北都留郡丹波山村の
「小さな村総合研究所」にて

七つの村の持ち回りで
毎年「g7サミット」を開催

奥田 2016年に開催された第1回の「小さな村g7サミット」ですが、どんな内容だったのですか。

小村 5月19日から22日までの4日間にわたって、丹波山村で開催しました。テーマは「移住」。七つの村の村長や若い移住者たちが活発に意見交換し、全国に向けての情報発信も行いました。

 基調講演には『里山資本主義』の著者でエコノミストの藻谷浩介さんを招き、プレサミットと同様、各村の特産品販売も行いました。新聞やテレビで大きく取り上げられ、地方紙やネットメディアにも私たちの取り組みを伝えることができました。

奥田 いろいろなご苦労はあったと思いますが、とても順調に進み、全国からも注目されている印象がありますね。

小村 このときの首長会議で、毎年持ち回りでサミットを開催することが決まり、17年に福島県檜枝岐村、18年に北海道音威子府村、19年に和歌山県北山村で行われ、コロナ禍による中断を経て、22年には岡山県新庄村で開催されました。23年は高知県大川村、24年は熊本県五木村で行われる予定で、これで一巡ということになります。

奥田 NPO法人を設立された狙いは?

小村 地域活性化に取り組むうえで、役場でも民間でもないNPOが主体となることで、公共性をもちつつスピード感が出せたらと思いました。私が代表理事を務めていますが、私以外の理事は2人の役場職員と8人の丹波山の自営業者で、まずは2~3人のグループをつくって6村を訪問する民間交流から始めました。実はNPOを設立し連携を促進することも、サミットの首長会議で決まったことでした。

奥田 丹波山村だけでなく、七つの村が手を携えて活性化していこうということですね。

小村 そうですね。ただ、ルールで縛るのではなく、緩やかな連携をしていくのがいいと考えています。そして、この活動を小さな村のエゴで終わらせず、いかに都市とつながっていくかということも、このNPOの課題です。

奥田 都市とのつながりですか。

小村 実は、ここ3年ほどは東京を中心にアピールしています。19年には、蒲田駅(大田区)の「グランデュオ蒲田」にオフィスを構え、その後、大田区側からのアプローチもあり、21年7月には羽田空港そばの羽田イノベーションシティで「小さな村g7+1サミット」を特別開催しました。

奥田 「+1」というのは大田区のことですか。

小村 はい、人口73万人の大田区です。会場となった羽田イノベーションシティには地方創生への寄与という目的もあり、こうした展開につながったわけです。

 また、グランデュオ蒲田はJR東日本のグループ会社が運営しており、その関係から蒲田だけでなく、中央線の八王子、国分寺、吉祥寺などの駅構内で特産品のマルシェイベントを開くことができました。これも都市とのつながりの一つといえるでしょう。
 

多摩川の源流と
100年前からのエネルギー問題

奥田 前回、都会の生活と自然のバランスという話が出ましたが、この丹波山村には美しい丹波川(たばがわ)が流れ、日本百名山に数えられる雲取山のふもとでもあります。やはり小村さんにはそうした自然への思い入れがあるのでしょうか。

小村 丹波川は多摩川の源流、まさに本流で、その語源ともいわれています。実は東京オフィスを大田区に構えたのは、そこが多摩川の河口部にあたるためです。つまり丹波山村と大田区は水で結びついているので、そこにこだわりはありますね。

奥田 なるほど、そういう縁もあるのですね。

小村 そして私の水に対する思いが強まったのは、およそ100年前の東京府の林業官吏中川金治さんの話を聞いたことにあります。

 いまでこそ、丹波山村の大部分は森林で、一面緑に覆われていますが、明治に入り木材需要が高まると、このあたり一帯ははげ山になってしまいました。すると、治水ができないため水害が増え、東京では、天然痘、コレラ、チフスなどの伝染病が大流行して、多くの子どもたちが命を落としてしまったのです。

奥田 ここがはげ山だったとは、想像できないですね。でも、どうしてそんなに木を切ってしまったのでしょう。

小村 明治政府の国策であった生糸産業のためですが、山梨でも養蚕が盛んだったため、製糸工場の動力や農家の蚕棚を温めるためのエネルギーとして乱伐されたのです。

 そこで東京府から派遣された林業の専門家である中川さんが、長い年月をかけて源流域に植林し、森林蘇生を成し遂げました。

奥田 当時からエネルギーと環境保全の問題があったというわけですね。

小村 まさにエネルギーと環境の問題は、100年以上も前から都市と地方の軋轢を生み、似たようなことは現在に至るまで続いているといえるでしょう。ちなみに、森林蘇生によって多くの人々を救った中川さんは、東京から村に帰るたびに童話の本や絵本を携え、村の子どもたちに与えました。「山の御爺」と慕われ、村を離れる際には生き神様として祀られ中川神社まで建立されたんです。100年近くたった今も村民から大切にされています。

奥田 そういうお話をうかがうと、より自然の大切さを実感します。

 ところで小村さんは、今後どのような活動をされていくのですか。

小村 さきほどお話したように、g7サミットは来年開催予定の熊本県五木村で一巡するため、それが一区切りと思っています。その後は、それぞれの村がゆるやかにつながっていけばいいと考えています。

奥田 g7サミットは、来年でおしまいということですか。

小村 そこは未定ですが、必ずしも続けなければならないとは思いません。私自身も丹波山と東京を行ったり来たりして働いていますので永住する必然性もないなと感じています。実は、毎年5月の第3日曜日に開催される「多摩川源流水干祭り」にあわせて、4年前に本籍まで丹波山村に移したんですが、過剰なこだわりはよくないなと反省してます(笑)。

 幸い、丹波山村への自治体や大学からの視察やフィールドワークが増加し、20代、30代の若い移住者も増えてきました。また、村内での起業も10社を超えています。来年のサミットを終えれば、ある程度の役割は果たせたかなと思っています。

奥田 もしかしたら、また小村さんに「変わるタイミング」が巡ってきたのでしょうか。

小村 それはわかりませんが、今、高齢者介護と、無肥料栽培による農業が気になっていて、その実習から学べたらと考えているんです。

奥田 まだまだ挑戦は続きそうですね。これからも、多方面でのご活躍を楽しみにしております。
 

こぼれ話

 「人とは何ぞや」――。私はBCNの後継社長として、千人回峰の壮大なテーマに挑むことになった。デビューの地は、奥多摩駅からさらにバスで1時間ほど走った丹波山村。この日は、電車のダイヤが大きく乱れ、丹波山村行きの最終バスに間に合った時には、すでに取材が無事終了したかのような達成感を味わっていた。

 関東で一番小さな村の活性化に取り組む小村幸司さんは、使命感や責任感に突き動かされているというよりは、自分と村が変化していくことをただ純粋に楽しんでいるように見えた。まさに「夢中」という感じである。何か新しいことにトライしようと47歳で決め
た人生。誰のせいにもしない生き方は強い。そして、とにかく面白そうだ。

 「(この村が)小さいことを逆手にとって情報を発信する」。小村さんが熱く語れば、小さな村が途端に強力な武器に変わる。東京からの長い道のりも、心を解き放つための最適な距離にすら思えてくる。情熱は伝播し、人の輪ができ、こうして仲間を作ってさまざまなプロジェクトを成立させてきたのだろう。小村さんのバイタリティに、人々が心地よく巻き込まれている感じがした。

 取材と称して、人の生き様や原体験を根ほり葉ほり聞くこの仕事は、なんて贅沢なのだろう。1000人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れる旅路はどんなものなのか。今は楽しみでしかない。しかし、1000人ともなれば、くじけることもあるかもしれない。そんな時も容赦なく締め切りはやってきて、ぐるぐると考えを巡らせながら、カタカタと文字に起こすのだろう。苦悩がにじみ出てしまった文章も、「人とは何ぞや」の解の一部と思っていただけたら嬉しく思う。等身大の自分をさらけ出すことを恐れず、一人一人と向き合い、地道に回を積み重ねていこうと思う。

 長い道のりを読者の皆様とともに。(奥田芳恵)

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第330回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

小村幸司

(こむら こうじ)
1965年9月、熊本県生まれ。89年3月、長崎大学経済学部卒業。旧三菱銀行勤務を経てテレビディレクターに転身し、経済、教育、海外などのドキュメンタリー番組に携わる。2014年4月、山梨県丹波山村の地域おこし協力隊として東京から移住。17年1月、NPO法人小さな村総合研究所を村民10人とともに設立した。20年4月、内閣府の地域活性化伝道師に選ばれる。