封印していた少年時代の夢を思い出し 過ぎ去りし日々を「ひとこま絵」の自分史に――第303回(下)

千人回峰(対談連載)

2022/04/08 00:00

松永 敏

【対談連載】山と絵に魅せられた 松永 敏

構成・文/浅井美江
撮影/笠間 直
2022.2.4/椿公園から遠くに雪を被った大台ヶ原を望む

週刊BCN 2022年4月11日付 vol.1918掲載

【三重県・尾鷲発】松永さんが出版された2冊の画集。鉛筆と水彩絵の具の淡い色彩で描かれたスケッチと軽妙な文章で構成され、どのページからも土の匂いと山の風が感じられる傑作なのだが、内容は肝が冷える事柄も少なくない。桜の大樹を救おうとして崖から落ち、登山道でマムシと対決し、熊にも接近遭遇、山で迷って遭難寸前という話もある。「よくぞこれまで命がつながりましたね」と言っても、松永さんは「ほんとやなあ」と涼しい顔で笑うばかりだ。
(創刊編集長・奥田喜久男)

2022.2.4/椿公園から遠くに雪を被った大台ヶ原を望む

デンガラボに崖落ち
野犬にマムシに野猿の思い出


奥田 2015年に画集を出されることになったきっかけを教えてください。

松永 商工会議所を辞めてから、ある時、絵画展に行く機会がありまして。あれこれ話しているうちに「松永さんも描いてみたら」と言われたのがきっかけです。

奥田 その方は、松永さんが絵を描かれると知っていて勧められたんですかねぇ。

松永 いえいえ。銀行員時代の辞職騒ぎから絵はずっと封印していましたから、私が絵が好きなことは誰も知りません。

奥田 じゃあ、たまたまそういう流れに…。

松永 はい。週に2回習うことになりました。1回2時間くらいで、風景を描く時の筆使いなんかを教えてもらいましたね。

奥田 描いているうちに昔とった杵柄を思い出した、と。

松永 まあそうです。「そうだ。これまでの自分史をひとこま絵にしよう」と思い立ったんです。最初はスケッチを子どもや孫に見せられればいいと思っていたんですが、兄や弟に「どうせなら本にしたら」と言われまして。

奥田 第一弾を出された。松永さんの画集は絵もさることながら、文章が実に軽妙洒脱ですごくいいんです。文章はどこかで学ばれたんですか。

松永 まったくの独学です。絵はほめられたことはあるけど、文章はほめられたことないですねえ。

奥田 画集には、松永さんの少年時代の思い出や山でのできごとがたくさん出てきます。……それにしても、よくもまあというほど危険な目に遭われています。

松永 そうですかね(笑)。

奥田 思わず身震いしたのが、松永さんが25歳の頃、自転車で里帰りした帰りに山で遭難しかけた話。

松永 ああ、「デンガラボ」ですか。

奥田 見出しにもなっていますが、どういう意味ですか。

松永 東紀州の方言で、無謀な山登りをして遭難し、周囲に騒動を起こしてしまうことを言います。尾鷲では「デンガラコ」と言いますね。

奥田 季節は春先。実家に帰ったついでのお昼過ぎ、ふと思い立って山に入り、調子よく登っていたら小雪がパラついてきた。次第にガスで周りが見えなくなって、慌てて帰ろうとして、つい谷に下りてしまった。

松永 そうなんです。若い頃、山の仕事に従事していたことのある親父から「山で迷ったら尾根へ登れ、谷は危険だ」と散々言われていたんですが、寒いわ視界は悪いわですっかり忘れていた。気がついたら谷に下りて冷たい沢水の中を歩いていました。

奥田 その後も迷いまくって、急坂を木につかまって下りたり、水力発電所の水管をロープで伝ったりして何とか人家にたどり着いたのが夜の9時頃。すでに実家の村では松永さんを探す山狩りが始まっていた。

松永 はあ、それはもう村中、上を下への大騒ぎでした。探してくれた皆さんにひたすら謝り続けました。

奥田 夜の山に装備もなく、たった一人。想像するだけでも怖いです。心細くはなかったんですか。

松永 いや、それより「おふくろや親父が心配しているやろうな」と思ったら、情けないやら申し訳ないやらで怖いどころじゃなかったです。

奥田 ほかにも野犬に襲われたり、桜を救おうとして崖に落ちたり、数十匹の野猿に囲まれたり、マムシとの一騎打ちも。なんでこんなに危ない目に合うんですか?

松永 いやあ、おっちょこちょいだからですかねえ。

奥田 よくこれまでご無事でしたね。

松永 はい。不思議と助かってきました(笑)。

大杉谷と大台ケ原に魅了され
サークルを結成

――松永さんが保管されている膨大なスクラップや山行記録、山岳雑誌等を拝見しながら――

奥田 松永さんは地元の大杉谷と大台ケ原にも深く関わっておられたんですね。中日、毎日、読売……いろんな新聞で記事も書かれていて、中日新聞は短編10回を10年間。読売新聞は、毎週1回を1年間連載されていました。これ写真も松永さんですか。

松永 そうです。

奥田 おお。山岳雑誌で立て続けに入選されている写真もありますね。

松永 スケッチを始める前はもっぱら写真ばかりでしたから。

奥田 大台ケ原と大杉谷に関わることになったのは?

松永 銀行員時代の頃、30歳くらいでしたか。営林署の人が窓口にやってきて「信州の山に登っていると聞いたが、大杉谷もいいよ」と勧めてくれて。

奥田 それで登られた。

松永 大杉谷には7つの滝と11の吊橋があって、とにかく景観がすばらしい上に、いろんな歴史があるんです。例えば、奈良の林業家で「吉野の森林王」と言われている土倉庄三郎さんという方がいらしたんですが。

奥田 土倉庄三郎さん。いつ頃の方ですか。

松永 明治です。教育熱心で卓越した先見の明があった。板垣退助や新島襄などにもいろいろな寄付をしたり、薪にされかけていた吉野の桜の山を「これからの日本のシンボルとして必要だ」と自費で買い取ったり。

奥田 すごい方ですね。大杉谷とはどういう関わりが?

松永 インフラ整備にも熱心で、奈良県から大杉谷まで見事な石畳の道路を作られているんです。すばらしい歴史の道があると営林署の方に教えてもらったんですが、調べれば調べるほど土倉翁の業績はすごい。

奥田 その後、松永さんは大杉谷から大台ケ原に向かう途中にある山小屋の運営にも関わり、1995年にはサークルも結成されました。

松永 「緑と水のグルッペ」ですね。

奥田 サークル名の由来は?

松永 山のことを考えた時一番大事なのは源流、となると「最優先は緑と水やな」ということでつけました。グルッペはドイツ語でグループの意味です。「関の弥太っぺ」みたいで語呂がいいかなと。

奥田 どういう集まりですか。

松永 山小屋の常連たちが、大台ケ原と大杉谷の環境を守ろうとゴミ拾いをしようと始めたことがきっかけです。ややこしい規約はなくて、ただ大台ケ原と大杉谷が好きで、緑と水を大事にする志を持っているということだけ。

奥田 運営のための会費とかは?

松永 小屋に来た時にだけ通信費として年会費1000円を払う。あとは山開けと山仕舞いに小屋の周囲1キロくらいを掃除する。時には営林署の指導で植樹や枝打ちもしたりね。だんだん懇親会が中心になってきましたが(笑)。

奥田 山では危ない目にも遭われましたが、多くの方との出会いもあったわけですね。

松永 その通りです。山がつないでくれたご縁は大きい。いろんな新聞に記事を書かせてもらったのも山ありきのことですし、「緑と水のグルッペ」も山と山小屋がつないでくれたご縁ですから。

奥田 今日は楽しい話を本当にありがとうございました。人生と山の先達として、どうぞ奥様共々お元気で山の魅力を伝え続けてください。

こぼれ話

 ある時、読者の方から言われて戸惑ったことがある。「毎回、楽しく読ませていただいています」と、ここまでは何気なく聞いていた。「こぼれ話に出る奥田さんの顔写真を見ていると、その対談内容が伝わってきて面白いです」。話を聞いた瞬間に体が凍りついた。「えっ、見抜かれているんだ」と。それ以来、対談の方とのツーショットは営業用の笑顔で通すよう努力している。ところがである。松永さんとの写真を見て、反省した。この顔はあまりにも喜びすぎだ、と。それには理由がある。私が目指している山人生の指向性とあまりにも類似しているからだ。山に登る人にはそれぞれのスタイルがある。どの趣味であっても同じだと思うが、ともかく人それぞれだ。松永さんの漫画山行詩『あの日あのとき』を手にとってパラパラとページをめくると、もう釘付けになってしまった。総頁146、一気読みなのだ。片面がホッコリしたイラストなので、73話。読み進めると山行風景が伝わってくる。小春日和の山、激雨の山、沢を遡行しながら頂上を目指す。滝でも岩でもともかく攀じる。雪の中にも突入する。崖から落ちても、真夜中に山で道がわからなくなってもめげない。ともかく、山に入る。

 本の中ほどに山行記録がある。それを見ながら、思わずニヤッとした。50歳から突然、山に入る回数が倍になっている。経歴を見ると、それまで勤めていた銀行から商工会議所の専務理事に転職している。なるほど、なるほど。もう一つ節目がある。61歳の定年でさらに山行回数は増えている。最高が62歳で、60回の山行記録。その年は宮之浦岳から大雪山、十勝岳まで日本の縦断山行だ。山行日数は軽く100日を超えていよう。なるほど、なるほど、なるほど。この人の山好きには脱帽だ。鳥の羽が生えたように、日本中の山を歩く姿に、いや、そうした生き方にうらやましくて涎が垂れそうである。松永さんに会いたい、会わねば気が済まない。会ってみて、さらに意を強くした。こんなにも山を愛する人がおられたのだ。山を登る体力、技術、情熱を持ち、それも21歳から現在まで、“山ありて我あり”の道を歩んでおられる。昨日も電話が入った。「今日は市内の便石山に登って、20年前にみんなで植えた桜の花の咲き具合を見てきました。檜の成長に負けて辛うじて一本だけ何とか咲いたのが慰めでした。それだけに、この一本を毎年観に行くつもりです」と。――79歳からの山との付き合い方である。

 山登りといってもいろいろな形がある。『千人回峰』で出会った登山家を読み直してみた。2013年、掲載87回目で竹内洋岳さんにあった。世界の8000メートルのすべてを登ったのは前年だ。当時41歳で14座の頂点に立った。細身の長身。贅肉はない。眼光は鋭い。クライミングの話は実に理論的できめ細かい。事故を想定してすべてのルートを机上訓練している。登りながら常に振り返って下山の時の風景を目に焼き付けたそうだ。すごい緻密さである。今にもエベレストに出かけそうな気配を宿していた。『千人回峰』100回目として、2013年5月23日に80歳でエベレストの頂上に立った三浦雄一郎さんに登場していただいた。全身が筋肉の塊だ。骨格が鉄筋ではないかと思うほどに屈強な肉体だ。多くの皆さんがその偉業をご存じだと思う。今回、当時の掲載写真を見て、その時はさほど感じなかった超人さを改めて感じた。それは眼光だ。9年前だから当時の私はまだ64歳だ。目力もあった。毎朝、自分の目を見ているから気づく。三浦さんの80歳の時の目を見て、青年の目力を感じた。もう一人、私の山の師匠である岩崎元郎さんとは2020年に対談した。かれこれ30年近いお付き合いになる。最初の印象は実に小柄なので驚いた。師匠がニッカポッカを履いたら、長ズボンに見えるのではないか(この記事が師匠の目にとまらないことを願っている)。敬意を込めて記せば、岩崎先生は山に入ると動物的な感で地形図を読み取ってしまう。あらゆる気候変動に遭っても生きて帰る術を身につけておられる。岩崎先生は小柄なので、普通の人でも山に登れるという安心感、あるいは親近感を抱く人が多いようだ。NHKはこの普通の体つきの山のプロを起用して『中高年のための登山学』の番組を放映した。岩崎先生とその弟子はテレビ出演した。95年のことである。ここから中高年の山ブームに火がついた。

 松永さんの山のキャリアを聞きながら、この人は隠れた登山家だと思った。大台ヶ原の、いや紀伊半島の山猿に違いない。話し始めると、時の流れを忘れてしまいます。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第303回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

松永 敏

(まつなが さとし)
 1942年、三重県北牟婁郡紀北町(旧海山町)生まれ。尾鷲高校を卒業後、百五銀行に入行。熊野支店長を経て93年から2004年まで尾鷲商工会議所専務理事を務める。22歳の時に登った乗鞍岳から観た槍穂高に魅せられ、21年時点で総山行回数1152回。日本百名山のうち84座に登頂。中日新聞などに山のコラムを執筆。15年に自費出版した水彩スケッチ画集『あの日あのとき』で第19回日本自費出版文化賞入選。21年に第二弾『あの日あのとき2』を出版。尾鷲市在住。