20代で山に魅了され、傘寿の今 水彩とペンでその魅力を伝え続ける――第303回(上)

千人回峰(対談連載)

2022/04/01 00:00

松永 敏

【対談連載】山と絵に魅せられた 松永 敏

構成・文/浅井美江
撮影/笠間 直
2022.2.4/尾鷲湾の船だまりから尾鷲トレイルを望む

週刊BCN 2022年4月4日付 vol.1917掲載

【三重県・尾鷲発】とあることで、山の小冊子を手に入れた。『あの日あのとき』だ。右頁に山登りのホッコリしたイラスト。左に散文詩。この人に会わなきゃ。冬晴れの日、松永さんを訪ねた。愛車のパジェロイオで近くを案内していただいた。5分ほどで着いた青い海と白い漁船群。晩冬の空を背景に高々と立ち並ぶ山の姿があった。熊野灘に面する尾鷲市。松永さんはこの地から山の魅力を伝え続けて、今年傘寿を迎えた。
(創刊編集長・奥田喜久男)

2022.2.4/尾鷲湾の船だまりから尾鷲トレイルを望む

槍穂高に魅せられて
22歳でのめり込んだ山行

奥田 先ほどはご案内いただき、ありがとうございます。あのあたりは尾鷲港ですか。

松永 そうです。地元では船だまりと呼んでいるところです。

奥田 青い海に白い漁船が映えていましたね。その後に案内していただいた展望台からの山々もすばらしかった。

松永 椿公園の展望台から見た景色ですね。手前が天狗倉山(522m)、その隣が便石山(599m)、遠くの奥に見えたのが日本百名山にもなっている日出ケ岳(大台ケ原山)(1695m)ですね。

奥田 海に向かってそびえ立つ山の姿がみごとでした。

松永 あの山々を尾根伝いに歩く「尾鷲トレイル」が盛んになっているんですよ。尾鷲湾を囲む三方の山の尾根を進むコースで全長37.7km。距離はそんなにないんですが、最高峰の高峰山は1045mあって、アップダウンが激しい。

奥田 タフなコースなんですね。最速記録はどのくらいですか。

松永 えーと。ちょっと待ってくださいね。――関係者の方に電話で確認して――令和元年(2019年)に樹立された約8時間だそうです。それまでの記録が10時間ちょっとだったそうですからずいぶん縮まりましたね。

奥田 松永さんも走られるんですか。

松永 いやいや、今年80歳になりますから、とてもとても(笑)。

奥田 今回松永さんに対談をお願いしたのは、出版された2冊の画集がきっかけです。画集の話は後ほど詳しくうかがうとして、まずは山の話を聞かせてください。

松永 はい、どうぞ。

奥田 画集にある山行記録を拝見すると、総山行回数1152回。日本百名山のうち、84座を踏破されている。山登りのきっかけは何だったのでしょう。

松永 22歳の頃、長兄が乗鞍岳に連れて行ってくれまして。山小屋に一泊した翌日、下山時に観た槍穂高にすっかり魅せられてしまいました。翌年(1966年)には弟と二人で白馬三山を縦走しましたね。

奥田 すっかりやみつきになったわけですね。その頃は働いていらしたんですか。

松永 地元の銀行にいました。当時の銀行はなかなか休みが取れませんから、連休になると夜行列車で行って、山に登ってまた夜行で帰ってくるという山行でした。

奥田 ハードな旅程ですね。それでも登りたかった。

松永 登れば登るほど、いろんな山があることがわかり、もう楽しくて面白くて。早く定年が来ないかなと思っていました(笑)。

奥田 銀行にはいつまでお勤めを?

松永 50歳頃でしたかね。地元の商工会議所で専務理事を探していて、行かないかという話があって転職しました。

奥田 当時、銀行での役職は?

松永 熊野支店長でした。

奥田 そこまで任されていて、もっと上に行こうとは思われなかったんですか。

松永 うーん。それはあまり思いませんでしたね。銀行員としてはまあここまでかなと。

奥田 いや、本当はもっと山に登りたかったからじゃないですか。

松永 あはは。そうだったかな。そうかもしれません。

奥田 だって、商工会議所に移られてから山行記録が一段と増えていますよ(笑)。商工会議所の専務理事としては何年くらいお務めだったんですか。

松永 62歳で退職しましたから、11年間ですね。

沼の底にじっと座り
ことが治まるのを待つ

奥田 松永さんは銀行員の時と合わせると43年間のサラリーマン生活です。何か自慢話をしていただけますか。

松永 いやあ、自慢するようなことはないなあ。失敗談ならたくさんあるけど(笑)。

奥田 じゃあ、それを一つお願いします。

松永 銀行員の時、新幹線のホームに頭取を置き去りにしたことがあります。

奥田 なんと!

松永 当時、小さな店の支店長だったんですが、ひょんなことから頭取の鞄持ちで上京したことがありまして。

奥田 緊張するお役目です。

松永 用事を済ませた帰りのことです。駅のホームで頭取に頼まれた弁当を買っているうちに、出発の時間が迫ってきた。焦っているところに新幹線が入って来たんで慌てて飛び乗ったんですが、弁当を抱えて指定の席に行ったら頭取がいない。

奥田 頭取は松永さんを待っていて乗り損ねたんですか。

松永 いや、私が乗り間違えたんです。「のぞみ」に乗るところを「こだま」に乗ってしまった。こだまは途中の駅でのぞみに追い越されるでしょ。それを見送った時の情けないこと……。

奥田 その後どうされたんですか。

松永 秘書室に連絡してわけを話し、頭取には電話で謝りました。「いいよ、いいよ」と頭取には許してもらったんですが、後から地区を統括する大店の支店長に大目玉を食らいました(苦笑)。

奥田 貴重な話をありがとうございました(笑)。さて、画集の話をうかがいましょう。絵は昔からお好きだったんですか。

松永 好きでしたね。小学校から中学校くらいまでは、漫画家になりたいという夢もありました。でも親父に反対されたこともあって、高校を受験する頃には何となくあきらめていましたね。

奥田 思いが復活することはなく。

松永 実は銀行員になってから一度あります。勤めて数年が過ぎた頃でした。ある日、出勤する電車に揺られていたら突然イヤになって。

奥田 どうされたんですか。

松永 無断欠勤して京都に行きました。父方の親戚が西陣織の下絵描きをしていましてね。以前から何度も声をかけてもらっていたんですが、やっぱりそこで働こうと。

奥田 思い切りましたね。銀行にはなんと。

松永 翌日出勤して謝罪しました。辞職を申し出たら、直属の上司は「ああ、そうか」とあっさりしたものだったんですが、支店長が「絶対に辞めてはいけない」と。何度も家まで来て親に話をしてくれて。

奥田 それで辞めなかった。

松永 まあ、家庭の事情もあって結局あきらめました。

奥田 でも無断欠勤はしているし、辞職の意思は伝えているわけですから、周りはいろいろ言いますよね。

松永 おっしゃる通りです。ですが、言い訳は一切しませんでした。今は沼の底に沈んでいるんだと自分に言い聞かせていました。

奥田 沼の底にいる、と。

松永 そうです。沼の底ではもがけばもがくほど泥水が舞い上がって水が濁ります。ですから一切言い訳せずじっとしていれば、そのうち水は澄んで来るだろうと。

奥田 ほお……。その教訓はどこから来たものですか。

松永 子どもの頃、しじみがたくさん取れる汽水湖がありましてね。潜って手づかみで獲るんですが、その時の経験からのものです。

奥田 なるほど、うまいことをおっしゃる。松永さんは自然からたくさんのことを学ばれているんですね。(つづく)

松永さんの人生が詰まった
記録の数々

 松永さんが作成された資料の一部。手前左は商工会議所時代の手帳群、その右は山の仲間と結成したグループの記録。奥に見えるイラストは松永さんが出版された画集の原画。ほかにも山行記録や執筆されていた新聞のスクラップ等々が几帳面に保存されている。あっという間に机が覆い尽くされてしまった。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第303回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

松永 敏

(まつなが さとし)
 1942年、三重県北牟婁郡紀北町(旧海山町)生まれ。尾鷲高校を卒業後、百五銀行に入行。熊野支店長を経て93年から2004年まで尾鷲商工会議所専務理事を務める。22歳の時に登った乗鞍岳から観た槍穂高に魅せられ、21年時点で総山行回数1152回。日本百名山のうち84座に登頂。中日新聞などに山のコラムを執筆。15年に自費出版した水彩スケッチ画集『あの日あのとき』で第19回日本自費出版文化賞入選。21年に第二弾『あの日あのとき2』を出版。尾鷲市在住。