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“価値”も“悲しみ”も生み出す 経営の正体を解明したい――第300回(上)

千人回峰(対談連載)

2022/02/18 00:00

岩尾俊兵

岩尾俊兵

慶應義塾大学商学部 専任講師 博士(経営学)

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2022.1. 12/東京都港区の慶應義塾大学三田キャンパスにて

週刊BCN 2022年2月21日付 vol.1911掲載

【東京・三田発】岩尾俊兵さんは、まさに新進気鋭という言葉が似合う経営学者だ。でも、お話をうかがっていると、単なる学究の徒にとどまらない熱量を感じる。おそらくそれは、アカデミズムの枠を飛び越える勢いで、自らの成果を伝え広めて世の中に貢献したいという情熱が伝播してきたからなのだろう。冷静に日本企業の強みと弱点を腑分けし、エネルギッシュに語るその姿から、閉塞感が拭いきれないいまの日本経済にわずかな光明が差し込んだような気がした。
(本紙主幹・奥田喜久男)

2022.1. 12/東京都港区の慶應義塾大学三田キャンパスにて

小学生の頃に抱いた

経営学者へのあこがれ

奥田 岩尾さんは平成生まれの若さにして、新年度から慶大で准教授に昇任されるとのことですが、学究の道はいつ頃から志されていたのですか。

岩尾 小学生の頃から、経営学者になりたいと思っていました。

奥田 小学生のうちから経営というものを意識するというのは、ずいぶん早熟というか、めずらしいですね。

岩尾 私は有田焼で有名な佐賀県の有田町で生まれ育ったのですが、祖父は江戸時代中期から続いているといわれる岩尾磁器工業の会長、父はその会社の常務を務めていました。岩尾磁器は有田で一番大きな会社で、その経営戦略や生産管理の状況を調査するため、ハーバードや東大の経営学者が訪問してきて、父と議論するようなこともありました。田舎の小学生にとって、そうした知的なやりとりは学者へのあこがれを抱くには充分であり、そんなバックボーンから経営学を究めたいと思うようになったわけです。

奥田 なるほど、そうした幼少時の家庭環境やそこでの見聞が、現在の道につながってきたと……。でも、経歴を拝見すると、だいぶご苦労があったようですね。

岩尾 そうですね。子どもの頃は比較的裕福な暮らしをしてきたのですが、経済的な事情から高校に進学せず、上京して働きはじめました。

奥田 有田一大きな会社の一族に生まれたのに、なぜそんな状況になったのですか。

岩尾 父は焼き物で新たなビジネスを起こすなど、そのアイデアを経営に生かしていましたが、祖父が亡くなった後に軋轢が起こり、会社を飛び出してしまったのです。何人かの部下を引き連れて、東京に新会社を設立しましたがうまくいかず、大きな借金を抱えて倒産させてしまいました。そうした事情から、私も中卒後、自分の力で学費を貯めて、その後進学を果たしました。

奥田 それは立派ですね。そんな苦労の中で、よく経営学者になろうとする気持ちが萎えませんでしたね。

岩尾 人が集まるからこそ、新たなモノやサービスを生み出す会社経営が可能になるわけですが、それと同時に会社経営は悲しみを生み出すものでもあると思います。そうした悲しみを目の当たりにして、むしろその経営というものの正体を解明しなければならないという気持ちが強くなりました。解明するまでは死ねないと。

奥田 う~ん、経営の「悲しみ」ですか……。

岩尾 例えば、父が優秀な部下を集めて起こした会社が資金に詰まって倒産し、あえて退路を断って参加したその人たちが離散してしまったことは、経営のもたらした悲しみといえるでしょう。

 また、あるとき、私が生まれる前から住み込みで働いていたお手伝いさんが解雇されてしまったのですが、家族同様の存在だっただけにとてもショックでした。ある程度の年齢だったこともあり、退職後は近隣の老人ホームに入居したのですが、とても聡明だったその人はわずか1年ほどですっかり認知機能が衰えてしまい、私のことも誰かわからなくなってしまいました。

奥田 働くという生き甲斐がなくなってしまったからでしょうか。

岩尾 老人ホームの職員から、毎日ふらりと出歩いた後に戻ってくるという話を聞きました。どこに行くのかとこっそり後をつけてみると、岩尾磁器に続く道を歩いていたのです。一生を岩尾家に捧げたといってもいいその人は、会社の場所だけは忘れていなかったわけです。

奥田 いろいろ事情はあるのでしょうが、たしかに経営とは切り離せないとても切ない話ですね。

父から叩き込まれた

『論語』の素養

奥田 ところで、岩尾さんのお父さまはだいぶ個性的な方のようですが、実際、どんな方だったのでしょうか。

岩尾 父は自ら在野の漢学者と称して、岩尾磁器にいる頃から社内で漢文塾を開き、事業に失敗して有田町に戻ってからも漢文の塾を開いていました。だから私は、物心ついた5、6歳の頃から『論語』を暗記させられていたんです。

奥田 そんな小さなときから論語ですか。

岩尾 意味がわからず暗記するのは苦痛ですから、その言葉や漢字の意味を聞きますよね。すると、その内容がだんだん理解できるようになっていきます。そうしたプロセスを通じて、父は私に論語の素養を叩き込んだのです。

奥田 なるほど、お父さまは岩尾さんに教養面でも多大な影響を与えたのですね。ちなみにお父さまは、岩尾磁器に入るまではどんなキャリアを歩まれたのですか。

岩尾 有田の隣町にある武雄高校から東大経済学部に進み、経営学を専攻していました。卒業後は総合商社の丸紅に入社したものの1年半で退職して岩尾磁器に戻るのですが、その後、新会社の経営に失敗して再び有田に戻ってからは、無報酬を公約に町長選挙に立候補したこともあります。落選してしまいましたが、地元に貢献したいという思いが強かったように思います。

奥田 波乱万丈の人生ですが、その教養と経営学のDNAは岩尾さんに引き継がれているのですね。

岩尾 そうかもしれません。父は、わざわざ講演会に出かけていって講師を論破するような性格で、周囲に敵も多かったようです。それはおそらく、世間の「常識」や「思い込み」を正したいという思いの発露だったのではないかと推察しているのですが、私の著書も世の中の常識を否定するような内容なので、そのあたりは共通していると思います。

奥田 お父さまは、まだお元気でご活躍ですか。

岩尾 いいえ、私が大学4年生のときに病気で亡くなりました。その葬儀のとき、選挙で父を支えてくれた方から「有田焼はどうやったら売れるようになるのか」と問われたことを覚えています。

 80年代に比べると、いまの有田焼の売り上げは肌感覚で10分の1以下まで落ち込んでいます。その打開策として考えられるのは究極のコストダウンですが、それを人を切るのではなくやり方を変えることによって実現し、1円でも利益が出る状態にすれば状況を打開できると思いました。こうした目の前の問題を解決に導くのも、経営学の重要な役割だと思っています。

奥田 小さな頃からリアルな「経営」や「経営者」の姿を見てきた岩尾さんだからこそ、経営学への思いやその本質をつかむ力が強いのですね。
(つづく)

砥部焼の大皿

 愛媛県砥部町在住の絵師、秋山憲二さんの作品。秋山さんは岩尾さんの父、俊志さんの友人で、有田町で15年間陶芸の研鑽を積んだ後、故郷の愛媛に戻り創作活動を続けている。岩尾さんは秋山さんの創作に打ち込む姿に圧倒され、自身への戒めの意味も込めて、研究室にこの作品を飾っているということだ。
 


心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第300回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

岩尾俊兵

(いわお しゅんぺい)
1989年、佐賀県有田町生まれ。中学校卒業後に上京。現場労働に従事し、進学費用を稼ぎながら勉学に励む。2008年、高等学校卒業程度認定試験合格。13年、慶應義塾大学商学部卒業。15年、東京大学大学院経済学研究科経営専攻修士課程修了。18年、同研究科マネジメント専攻経営コース博士課程修了、博士(経営学)取得。明治学院大学経済学部専任講師、慶應義塾大学商学部専任講師を経て、22年4月、同准教授に昇任予定。東京大学大学院情報理工学系研究科客員研究員等を歴任。著書に『イノベーションを生む“改善”』(有斐閣)、『日本“式”経営の逆襲』(日本経済新聞出版)がある。