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自分の強みは製品に対する「こだわり」“ソニーらしさ”の中でモノづくりに没頭する――第276回(上)

千人回峰(対談連載)

2021/02/12 08:05

鹿野 清

鹿野 清

日本エレクトロニクスショー協会 執行理事・理事/CEATEC実施協議会 エグゼクティブ・プロデューサー

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子

週刊BCN 2021年2月15日付 vol.1862掲載

【内神田発】40年近くソニーという企業で働き、要職を務められた鹿野さんに、その社風について聞いてみた。そのひとつは、相手が社長だろうが新入社員だろうが、呼びかけるときはすべて「さん」付けだということ。教えられてそうしたのではなく、入社したときからみんなそうだから自然とそうするのだと。「〇〇社長」などと呼んだことは一度もないという鹿野さんは、いま執行理事を務める社団法人でも「私を理事と呼ぶな」と宣言しているそうだ。それも、モノづくり企業のDNAなのだろう。(本紙主幹・奥田喜久男)

2020.12.4/東京都千代田区のBCN会議室にて

ラジオ少年は小6にしてひとり旅
山形から秋葉原まで部品を買いに

奥田 鹿野さんは長年ソニーで活躍され、現在は日本エレクトロニクスショー協会の執行理事・理事として、CEATECのエグゼクティブ・プロデューサーを務められています。どのような経緯で、いまのお仕事をされることになったのですか。

鹿野 6年前にソニーを定年退職してからは、昔からの縁で、エレコムや盛田エンタプライズ(酒類食品などの卸売会社を傘下に持つ統括会社)などの顧問を務めていました。いまでもその仕事を続けていますが、その後、電子情報技術産業協会(JEITA)から家電メーカーや展示会のことがわかる人を探しているといわれ、そのお誘いに応じました。でも、メーカーとして何回も出展したことはあっても、主催するのは当然ながら初めてですから、立場は180度違うんですよね(笑)。

奥田 定年後も、引く手あまたですね。展示会のことについては後でじっくりうかがいたいと思いますが、ちょっと時代をさかのぼって、子どもの頃はどんな少年だったのですか。

鹿野 私は小さな頃からトランジスタラジオなどを組み立てることが好きだったのですが、生まれ育った山形市にはパーツ屋さんがありません。それで小学校6年生くらいになると、列車に乗ってひとりで電子部品を買いに行くようになったんです。

奥田 どこまで?

鹿野 秋葉原。

奥田 えぇー? 山形から東京まで小学生ひとりで?

鹿野 はい。当時は山形から8時間ほどかかりました。横浜に住んでいた伯父の家に泊めてもらい、途中の秋葉原で買い出しをしたわけです。『ラジオの製作』などの雑誌を見ながら、夢中でつくっていましたね。

奥田 その雑誌は電波新聞社の発行ですよね。若い頃その編集部の隣にいました。懐かしいなぁ。やっぱり、ラジオ少年だったんだ。そうした少年を育んだ鹿野家は、どんな家庭だったのですか。

鹿野 両親とも学校の先生で、父は理科の教師でしたからそうした影響を受けたのかもしれません。

奥田 親御さんの理解があるから、秋葉原での買い出しも許してもらえたわけですね。

鹿野 必ずしも裕福ではなかったのですが、当時、白黒テレビもカラーテレビも近隣で最初に買ったのはわが家でしたし、買ってもらったラジオやテープレコーダーはソニー製でした。

奥田 町内の最先端を行っていたんですね。

鹿野 父は井深大さんのことが大好きで、ことあるごとに私に井深さんの話をしてくれました。

奥田 どんなことを?

鹿野 発想豊かなアイデアマンであることを熱心に語っていました。だから、ソニーに入ってから井深さんと話をする機会があると、つい父の姿が思い浮かんだものです。

奥田 いい話ですね。でも、そのあたりから将来の進路が決まっていたのかもしれませんね。

40年以上前に学んだIEは
いまの先端技術につながっていた

奥田 大学では何を専攻されたのですか。

鹿野 電気通信大学で、ゼミでは当時最先端の学問だったIE(industrial engineering=産業工学)の研究をしました。ちょうど日立のHITAC10というわが国初のミニコンピューターが出たばかりの頃で、IEとミニコンピューターによるデータ解析の両方を学びました。

奥田 IEというのは、具体的にはどんなことをするのですか。

鹿野 IEというのは泥臭い学問で、たとえば動作分析といって、工場で働く人の動作を一つひとつ分析するんです。そうしてどれが最も効率がよいか見極めるというのが、IE研究の入口の部分です。

 工場の自動化を行うFA(factory automation)に通ずるものであり、いま行われているような、IoTを使って効率を高めたり、クラウドにビッグデータを集積して分析したりすることのはしりといえるでしょう。

奥田 なるほど、40年以上前の学問が、現在の先端技術につながっているというわけですね。

鹿野 学生時代には、この動作分析の記録を自分たちで行わなければならないわけですが、当時研究室で使っていた白黒のビデオカメラとビデオレコーダーはソニー製でした。小中学校の頃からソニー製品に親しんできた私にとって、これも縁だと感じました。それで、カメラメーカーの専門職になる予定を変更して、やはり思い入れの深いソニーに入社することにしたわけです。

奥田 ご経歴を拝見すると、最初はソニー商事に入社されていますね。

鹿野 ここで人生を間違えたんですね(笑)。何を思ったか、ソニー本社の人事の人に「マーケティングをやりたい」と口走ってしまったのです。本来は本社のコンピューター部門に配属されるはずが、国内の販売部門を統括するソニー商事に連れていかれ、技術もわかるということもあり、商事の側も喜んで受け入れてくれたのです。これが、人生最大のターニングポイントでしたね(笑)。

奥田 そこで、どんな仕事をされたのですか。

鹿野 マーケティングをやるぞと意気込んでいたのですが、テレビ営業部というセクションに配属されて、当然一番の若手である私は「帯広の量販店に手伝いに行ってこい」とか「沖縄で訪問販売をやるぞ」とか「ホテルで開かれる展示会の設営・販売・撤去作業を全部やってこい」とか、先輩たちに使われまくったのです。

 奥田さんは信じないでしょうが、就職するまで私はとても無口で、酒もほとんど飲みませんでした。でも、ソニーに入ったばかりの頃はそんな生活でしたから、ここで喋りと酒については鍛えられましたね。

奥田 はい、信じられません。ソニー商事が、鹿野さんの仕事のベースをつくったと……。

鹿野 いや、そういう限られた部分のベースですね(笑)。でも、やはり自分の強みは商品に対するこだわりであり、マーケティングの限界も感じたことから、モノづくりをしなければならないと本社のテレビ事業部に異動し、トリニトロンをはじめとする商品企画を担当することになります。

 当時の社長の大賀典雄さんが名づけたサイテーションというパーソナルテレビやプロフィールというカラーモニターを手がけましたが、プロフィールをつくったきっかけは、大賀さんが「楕円に見えるテストパターンの図形が正円に映し出されるようにつくれ」といったことです。こうしたトップの一言で新たな製品がつくられるというのは、ソニーらしさといえるでしょう。

 それから、井深さんが散髪中、鏡に映るテレビの画面が気になり、左右反対に映るテレビをつくれと命じたことがありました。最初は冗談だと思ったのですが井深さんは本気で、設計に頼んで実際につくってもらい商品化してしまったんです。

奥田 実際に売ったのですか。

鹿野 はい。驚くことに数千台売れました。商品名は「どんでん返し」とつけました(大笑)。(つづく)

お気に入りの高級バーボン
「ブラントン(Blanton’s)」と西国三十三所巡礼の散華

 

 ブラントンのボトルキャップはケンタッキー・ダービーのサラブレッドをかたどったもので、全部で8種類ある。すべて揃うと、B・L・A・N・T・O・N・Sになるのだが、鹿野さんのコレクションは7番目のN(N2)だけが足りないとのこと。そして、もう一方の写真は、日本最古の巡礼路、西国三十三所の散華(さんげ)。各札所のご本尊がすべて観音様なのだそうだ。鹿野さんは2020年春までに27の札所を訪れたとのことだが、コロナ禍で中断中。こちらも、早くすべてのお寺を巡りたいところ……。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第276回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

鹿野 清

(しかの きよし)
 1951年8月、山形県山形市生まれ。75年、電気通信大学電気通信学部経営工学科卒業後、ソニー商事入社。ソニー(本社)テレビ事業部を経て、81年、ソニー・アメリカに赴任。93年、日本に帰国。PC「VAIO」の立上げを行い、98年、欧州でのPC事業立上げの責任者としてソニー・ヨーロッパ(ベルギー)に赴任。その後、欧州コンスーマビジネス担当役員となり、2002年、国内販売部門帰任後は、B2Bおよびコンスーマビジネスの担当役員を歴任。08年、業務執行役員(SVP)として全世界のコンスーマー販売部門を担当。ブランディング担当役員としても各国の展示会・イベントを統括し、FIFAワールドサッカーおよびソニーオープンゴルフトーナメントを運営。渉外担当役員を経て、14年に退職。同年よりエレコム顧問、盛田エンタプライズ顧問などを務め、16年、日本エレクトロニクスショー協会顧問に就任。17年、同協会執行理事・理事となる。

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