「ポスト中国」は中国だ――第67回

千人回峰(対談連載)

2012/05/18 00:00

増田 辰弘

アジアビジネス探索者  増田辰弘

構成・文/小林茂樹

 増田 中国メーカーには、どこに行っても必ず日本人社員がいます。私が中国メーカーを取材する際に対応してくれるのは中国の方ですが、食堂に行ってみると日本人が話をしていたりする。おそらく、日本のメーカーをリタイアした方がスカウトされたのでしょう。あるいはリストラされた方かもしれません。いずれにせよ、日本のメーカーの最前線にいた技術者が5年も中国にいたら、おそらく同じレベルになってしまうことでしょう。それが中国メーカーの技術力向上の一因になっていると私はみています。また、香港や台湾のメーカーでも同様の傾向がみられますね。

 奥田 それは、ちょっと複雑な心境になりますね。

 増田 日本人技術者ということでいうと、もう一つ面白い現象があります。それは、生まれた川に再び帰る鮭のように、日本のメジャーなメーカーの大連工場長を経験した人は大連に、バンコク工場長はバンコクに、ホーチミン工場長はホーチミンに戻ることが多いということです。

 どういうことかというと、現役時代からあらかじめ目をつけておき、そういう人材が定年になったとき、現地に工場をもつ日本の中小企業がスカウトするのです。子会社(現地法人)の社長と工場長が現地語ペラペラで地元ワーカーの特性を理解していれば、本社から人を派遣する必要があるのは新製品を出したときの指導要員だけ。非常に効率がいいわけです。そして、一度定年を迎えて年金をもらっているシニアですから、あまり多く報酬を払う必要がないというのも、中小企業にとって大きなメリットです。ですから、60歳を過ぎた日本人の工場長は珍しくありませんし、そんな方はいきいきと人生を楽しんでいるような感じがしますね。

変化し続けるビジネスモデル

 奥田 そのほか、アジアウオッチャーとして気になる変化はありますか。

 増田 日本企業は、いわゆるアジアとの競争業種ではビジネスモデルが変えなければいけないということがわかってきました。例えば、これまではテレビを組み立てる賃金が日本では高いから中国でつくるという単純な発想でしたが、それだけではうまくいかないことがわかってきたのです。

 ある地方の中堅工務店がアジアで事業を展開している事例を紹介しましょう。この工務店は日本国内で高級注文住宅を手がけていますが、フィリピンのマニラに工場があり、ラオスやロシアから木材を輸入して加工し、そこで住宅をつくっています。そして、現地で一度組み立ててから分解し、それをコンテナで日本に送って改めて建て直すというビジネスを展開しているのです。

 この会社の工場は、フィリピン人従業員が1万人、その仕事をチェックする日本人従業員が250人と大規模なのですが、社名の看板も掲げずに、徹底した秘密主義を貫いています。おそらくこのようなビジネスモデルそのものを知られたくないということだと思います。

 当然、この工務店の利益率は高く、またメイド・イン・ジャパンの高級注文住宅として商売ができるメリットがあり、急成長しています。注文住宅という内需産業がアジアを活用したとたん、一人勝ちの成功を手にしたということです。もちろん、今後、同業者にこのビジネスモデルを真似されれば一人勝ちというわけにはいかなくなりますが、こういった発想はなかなか出てくるものではないでしょう。

 もう一つ、大企業の例では、アサヒビールがオーストラリアから青島に乳牛を1000頭運んできて牛乳を生産しています。1本300円ほどですが、これが大好評で、青島だけではなく上海や大連まで供給しています。日本企業が運営している牧場の牛乳は間違いないだろうという信頼感が成功につながったのでしょう。

 いうまでもなく、アサヒビールは日本ではビールメーカーですが、その枠にとらわれることなく、食品会社として中国に見合うビジネスをやっているということですね。このように日本企業は、従来の専門業種にとらわれず新しいビジネスをどんどん展開していくことが生き残りにつながると思います。

 奥田 中国の存在感が圧倒的に大きくなっていると思うのですが、今後どうなっていくのでしょうか。

 増田 日本企業のアジアへの投資額は2兆円で、そのうちの4割、8000億円が中国向けです。やはりASEAN諸国に比べて発信するメニューは豊富であり、労働集約的な産業がカンボジアやバングラデシュに移っても「ポスト中国」は中国だと思いますね。少なくともわれわれの目の黒いうちは。

 奥田 アジアの国々を200回以上訪問されたということですが、今後の活動はどのようなものになりますか。

 増田 そうですね、行けるのはあと5年。年に10回として50回くらいだと思います。そう思うとアジアがいとおしいし、自分がアジアで何を探していたかということを再編集したいという思いにとらわれています。

 奥田 直感的には、何を探していたとお思いですか。

 増田 自分とは何者なのかという、そのルーツでしょうか。

 奥田 かっこよすぎますね(笑)。今日はいろいろと興味深いお話を、ありがとうございました。

「1997年あたりを境に、NIES、ASEANから中国に世界の注目が移りはじめたということですね」(奥田)

(文/小林 茂樹)

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Profile

増田 辰弘

(ますだ たつひろ)  1947年9月18日、島根県生まれ。法政大学法学部法律学科卒業後、神奈川県庁入庁。商工部産業政策課主幹、工業貿易課主幹などを経て、産能大学経営学部教授、法政大学大学院客員教授などを務める。(財)神奈川産業振興センタービジネスプラン評価委員会座長、(財)海外技術者研修協会講師、KSP(かながわサイエンスパーク)アソシエイツ。