“change”こそが原動力だ――第29回

千人回峰(対談連載)

2008/10/27 00:00

古河建純

古河建純

ニフティ 常任顧問

「オレより知っているヤツはいない」

 奥田 なるほど、おっしゃる通りですね。ところで、私がはじめて古河さんにお会いしたのは、富士通のパソコン事業の責任者をなさっていた時期ですが、経歴を拝見するとずいぶんいろいろな事業に取り組んでこられたのですね。

 古河 そうですね。当時は、ともかく新しいものをやらなければという気持ちで、いろいろなものにチャレンジしていました。いまほど組織がかっちりとできあがっていない頃ですから、最近の若い人に比べるとだいぶん自由にやらせてもらったと思います。

 私が富士通に入社したのは1965年ですが、会社はこの頃からコンピュータに本格的に力を入れ始めました。ところが、上司はみな、コンピュータのことがわからない。もともと通信機の会社ですから、ソフトウェアといわれてもピンとこないのです。私は大学の工学部で最先端のソフトウェアについて勉強していましたから、入社して「オレよりソフトウェアのことを知っているヤツはいないな」と思ったものです。そんなこともあって、上司に報告をしない癖がついてしまって(笑)。

 そういう意味では、私たちこそコンピュータについてリーダーシップがとれる最初の世代だったわけです。実際、課長になる前に200人の部下がいました。いま考えるとめちゃくちゃな話ですが、会社としては人事制度を変えずに開発を進めるためには仕方なかったのでしょう。

 私たちが開発していたのは、メインフレームのOSの上にオンラインとデータベースの機能を持ったソフトウェア製品です。銀行のオンラインシステムなどに利用されるものですが、「絶対にIBMに負けたくない」と、相当な冒険を繰り返していましたね。

 奥田 やはり、IBMへの対抗心は相当にあったわけですね。

 古河 というか、子供が大人に立ち向かうような…。私は入社3年目(1967年)から3年間、ニューヨークに駐在していて、その当時のIBMは工場の中を気軽に見せてくれましたよ。案内してくれた技術者が別れぎわ、「ところで、おまえの会社はなんという会社なんだ?」と尋ねてくる。「富士通? コンピュータをやっているのか。せいぜい頑張れよ」てな調子で、まるで相手にしていないわけですね。まあ、いい時代でした(笑)。

 1970年代の230-5/8シリーズ、74年のMシリーズの開発に関わりました。OSや言語はIBMと互換性を持たせたけれど、オンラインとデータベースは富士通独自の製品を開発しました。なぜなら、IBMの製品を徹底的に分析してみたら、このままでは日本の金融機関で通用しないと思ったからです。ですから、私はお客さんに「私は、IBMのSEよりもIBMのシステムを知っているから大丈夫です」と断言したこともあります。われながら果敢なチャレンジでしたね。

 奥田 その後、古河さんはメインフレーム部門からパソコン部門に移られるわけですが、だいぶ意識革命が必要だったのではないですか。

 古河 当初、富士通ではパソコンは半導体部門が担当していました。メインフレームをやっていた私にすれば、「パソコンなんて半導体をたくさん使う玩具だ」とバカにしていたわけです。ところが、当時の山本卓真社長が「パソコンは将来性がある」と方針を定め、パソコン事業を半導体部門から情報処理部門に移管します。そこで、FM TOWNSや日本語ワープロのOASYSの開発をするのですが、マーケティング部門などとも議論しながらわいわいやって面白かったですね。

 意識革命といえば、ビル・ゲイツとの出会いは大きかったですね。1985年頃、私はシアトルのマイクロソフトに何度も足を運びました。当時、MS-DOSの採用は決めていたものの、Windowsについてはまだ1.0の段階で、IBMのOS-2など他社も同様のOSをリリースしていました。いまのような寡占状態ではありません。

 で、マイクロソフトに行くと、ビル・ゲイツが自らデモをするんです。「これ、大丈夫か?」と尋ねると、あの少し甲高い声で「大丈夫だよ」と答えて、「こんなこともできる、あんなこともできる」と一生懸命プレゼンするんですね。ただ、Windowsがまともになったのは3.0からですけど(笑)。

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