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  • 元ウチダエスコ社長、現・社会福祉法人「松の実会」理事 関昌

機械だけでなく人間もアフターサポート――第23回

千人回峰(対談連載)

2008/06/09 00:00

関昌

関昌

社会福祉法人「松の実会」 理事

人集めにはウチダの名前が必要

 奥田 よくウチダの名前を入れる決断をしましたね。

 関 ウチダの名前にした最大の理由は人集めのためでした。何しろ、電子機器を扱うのは初めて、理工系出身の人間を増やしていく必要がありました。タイヨウのままだと、親類縁者くらいしか入ってこないなと考えたんです。成長を早めるにはとにかく優れた人材を集めるしかないと考えていました。

 奥田 ウチダ製品以外にも手を広げていかれますね。最初はどこだったんですか。

 関 1971年1月に、精工舎と保守サービス業務契約を結び、SEIKO S300/301の保守を開始しました。科学技術用計算機をうたった専用機で、同年7月には科学技術用デスクトップコンピュータのS500の保守も開始しました。S500は、建設業界に飛ぶように売れたマシンで、保守料は結構高く、いい収入になりました。最初はウチダを間に入れての契約だったんですが、1977年には精工舎さんと直接契約を結びました。

 創業期を振り返ってみますと、内田洋行の在庫管理機エルコスの保守を開始したのが1972年、この年はSEIKOタイムレコーダーのサービス指定店にもなりました。翌73年には、東京データマシンの紙テープマシン、コンパクタの保守を開始しましたが、メカ部分が入っているので私には面白かったですね。

 ミロク経理と保守契約を結んだのは1976年、富士通のオフコンFACOM Vシリーズの保守契約は79年、同社とは翌年ワードプロセッサOASYSシリーズの保守契約も結んでいます。

 奥田 保守料というのはどんな支払い形態が多いのですか。

 関 原則的には年間契約で、前受金処理でした。たとえば、SEIKOのS500シリーズの場合15万~20万円でしたから、結構いい収入になって、資金の回転は楽でしたね。

 ただ、途中で税務署と交渉し預かり金処理にして、経営の安定化を図りました。それまでは、前受金=売上金としていたのですが、これを12分の1ずつに取り崩すことになり、その処理に当たった第8期、1975年の決算は赤字になりましたが、運転資金そのものに変化があったわけではなく、その後は順調に成長を続けました。

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