『雨ニモマケズ』と『青空文庫』は文化交流の架け橋――第104回(上)

千人回峰(対談連載)

2014/02/06 00:00

王 敏

法政大学 国際日本学研究所 教授 王 敏

構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2014年02月03日号 vol.1516掲載

 王敏先生は日本と中国の比較文学者であり、宮沢賢治の研究者でもある。文化大革命の時期に多感な青春時代を送ってこられた。抑えきれない向学心、学問への夢を実現するために、数少ないチャンスを生かし、文科系の論文審査による中国から日本への国費研究生第一号となられた。おだやかな口調で話されるなかに、「宿命」とか「運命」という言葉がしばしば出てくる。己の進む道を自らの意思だけでは決定し得ない時代への思いが込められているように感じた。(本紙主幹・奥田喜久男) 【取材:2013.11.20 東京・千代田区九段北の法政大学にて】

2013.11.20 東京・千代田区九段北の法政大学にて
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第104回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

日中国交正常化が学究への道を拓く

奥田 王先生は日中の比較文学者であり、宮沢賢治研究の第一人者でもいらっしゃいます。どのような経緯で日本との関係ができたのですか。

 日本との出会いのきっかけは、1972年の日中国交正常化です。当時、中国はまだ文化大革命の真っ最中で、すべての高等教育が否定されていました。

 私も知識に飢えていた若者の一人でしたが、いくら勉強したくても、勉強する場所も方法もまったくありませんでした。ところが、国交正常化に備えるために、当時の周恩来首相は少人数の人材を選んで日本語を学ばせたのです。私は19歳のとき、運よくそのメンバーに選抜されて、大連外国語大学で日本語を学びました。紅いコーリャンやトウモロコシに囲まれた素朴な田舎で勉学に励みました。それが日本語との出会いです。

奥田 日本語と出会ったのは偶然だと……。

 そうだと思いますね。私の知らないところで国交正常化という国家政策が動いており、そのタイミングに合わせて、敷かれたレールに乗る人が必要なのです。そこに私が乗ったということで、それは自分の宿命かもしれませんし、運命なのかもしれません。主体的に日本語を選んだわけではありませんから、いわば時代の申し子ということだと思います。

 大連外国語大学で日本語を学んだクラスメートたちは国家の高官となり、その多くが対日部門の局長クラスになっています。ですからクラス会をするときは、私以外、みんな運転手や秘書付きの高級車でやって来るのです。それが、あの時代に生まれて選ばれた人間の普遍的な運命だと思います。むしろ、私が「除外」されました。私もその高官の一人になるコースから自ら降りて、あえて勉学の道を選びました。

奥田 そこで、学究の道を選ばれたわけですね。

 ただ、学問を続けるには大学卒業後に大学院に進む必要がありますが、1977年当時の中国には、大学院の制度も学位制度もありませんでした。このままでは、私の夢が幻想に終わってしまいます。そんなとき、中国に大学院をつくり、学位制度をつくるという国家政策が打ち出されたのです。そのために、テストケースとして中国全土から10人を選び、日本研究を専攻する大学院で学ばせることになりました。私はこのチャンスを逃してはならないと思って努力し、その試験に合格することができました。ここで私は、官僚を養成する組織のレールから離れて、自分自身で決めた教育者、研究者へのレールに乗り換えたわけです。

奥田 大学院は、四川外国語大学でしたね。

 中国政府は四川外語大で、その大学院制度のテストをしたのです。そして、ここが日本専攻の大学院の発祥の地になります。私が第一期生として入ったのは1979年の秋です。
 

東日本大震災で読まれた宮沢賢治

奥田 ところで、宮沢賢治との出会いも偶然ですか。

 それも、まったく想像できなかった宿命だと思います。宮沢賢治に出会ったのは、四川外語大の大学院です。そのときに、日本から派遣された石川一成という先生がいらっしゃいました。その先生が授業で『雨ニモマケズ』を取り上げ、当時は何も日本語の教材がありませんでしたから、全部ガリ版で刷って院生たちに配ってくれました。それが宮沢賢治の文学との初めての出会いですね。

 私たちは2年間、そこで学んで、81年に卒業するのですが、卒業後すぐに大学院制度と学位制度が正式に発足しました。そして、日中友好の人材を育成する大学教員養成の目的で、中国人学生に対して日本の国立大学での研究生としての道が開かれました。従来、中国人の文科系の院生が日本語で書いた論文を審査して、日本の国立大学が受け入れるという留学制度はありませんでした。これもテストケースで、第一号を誰にするかということで私が選ばれて、宮城教育大学に留学することになったのです。これも、宿命的なレールの乗り換えとなりました。

奥田 宮沢賢治の研究だから、宮城教育大学に?

 そうですね。教員養成大学で宮沢賢治の故郷に一番近いのは宮城教育大学です。文部科学省は、私の論文のテーマが宮沢賢治だったから、その研究は関東や関西ではなく、東北でやるべきだと考えたのでしょうね。

奥田 ところで、ご著書の『鏡の国としての日本』を読んで驚いたのですが、東日本大震災の後、『雨ニモマケズ』の青空文庫からのダウンロード数が1か月で4万1000回に及んだということですね。震災が人々の心にもたらした影響もさることながら、王さんは『青空文庫』のことを以前からご存じだったのですか。

 はい。青空文庫はだいぶ前から知っていました。

 震災後、私は直感で宮沢賢治が読まれるだろうと思いました。経済成長を遂げた日本は、たとえていうならば、宝石やアクセサリーで着飾った女性のようになりました。それはそれで魅力的ですが、それらを全部外してしまえば初々しい少女のような日本が現われます。宮沢賢治が表現したものは、そのような自然体の日本です。それと同時に、そういった素朴な日本と科学技術の発展をはじめとする近代化により武装した日本の矛盾が描かれているのが宮沢賢治の作品です。常にその矛盾に悩み、日本の針路と人としての生き方を確認しつつ、いかに前向きに生きていくかを呼びかけたのが宮沢賢治なのです。だから震災によって、必然的に宮沢賢治の考え方が日本人の心の中に再度浮かんできたのだと思います。

 そして、2011年4月11日、ちょうど震災の1か月後、アメリカ・ワシントンの大聖堂で「日本のための祈り」があり、世界中の宗派を超えた人々の祈りが『雨ニモマケズ』の朗読を通して行われました。それだけではありません。香港でもジャッキー・チェンたちが中心となって『雨ニモマケズ』を被災者支援ソングとして日本に発信したのです。こうして『雨ニモマケズ』が地球のあちこちで響いたということは、私の直感は自分だけのものではなくて、普遍性があったわけですね。(つづく)


中国で宮沢賢治を紹介した出版物

 左の「中国作家」は中国文学界を代表する雑誌、真ん中の「作文素材」はすべての高校生が読むテキスト。両方とも震災一周年の特集で宮沢賢治を取り上げている。右の「宮沢賢治と中国」は、お茶の水女子大での博士論文の中国語版。
 

Profile

王 敏

(Wang Min)  1954年、中国河北省承徳市生まれ。1977年、大連外国語大学日本語学部卒業、四川外国語学院大学院修了。1982年、国費研究生として宮城教育大学で学び、2000年、お茶の水女子大学で人文博士号を取得。東京成徳大学教授を経て2003年より現職。主な著書に『鏡の国としての日本』(勉誠出版)、『日本と中国』(中公新書)、『日中2000年の不理解』(朝日新書)、『謝々!宮沢賢治』(朝日文庫)、『宮沢賢治、中国に翔る想い』(岩波書店)など。