時間を失うのは命を失うのと同じだから、スピード、スピード――380人目(上)

千人回峰(対談連載)

2025/10/03 08:00

王夢周

王夢周

テックウインド 代表取締役社長

構成・文/道越一郎
撮影/道越一郎
2025.8.7/東京都文京区のテックウインド オフィスにて

週刊BCN 2025年10月6日付 vol.2077掲載

 コンピューターが社会を変えるという確信を胸に、留学生として来日した王さん。1990年にDOS/V機が登場し普及していく中、これをチャンスと捉え、マザーボードの輸入販売を出発点に東京・秋葉原でPCビジネスを本格化させた。時あたかも日本のPC市場が国産ばかりの閉じた環境から、一気に世界へと解き放たれた時代。父から学んだビジネスの基本「信頼」を武器に、秒進分歩で目まぐるしく進化するPC市場の波を乗りこなしてきた。日本市場で成功するかぎは「第1に品質、第2に品質、第3に品質」。
(本紙主幹・奥田芳恵)

2025.8.7/東京都文京区のテックウインド オフィスにて

DOS/V機が広まり 自分の時代がきたと思った

奥田 台湾でお生まれになって、どのような経緯で日本に来られたんですか。

 留学です。26歳で初めて来日しました。1974年です。実家は機械屋で、日本とも取引があり、なじみもありました。日本で文化や社会、ビジネスを勉強したかったんです。

奥田 家業を継ぐという思いはなかったんですか。

 伯父が社長、父が専務という家族経営の会社でした。8人兄弟で、そのうち4人が海外で留学しました。きっと私より優秀な人が跡を継ぐだろうと思っていました。

奥田 帰ってこいとは言われなかったんですか。

 「故郷に錦を飾る」じゃないですが、何かを成し遂げてから帰ろうと思っていました。それまでは頑張ろうと。自分に負けたくなかったんです。興味を持っている分野にチャレンジし続けているうちに、機を逸してしまいました。

奥田 どんな分野に興味をお持ちだったんですか。

 半導体やコンピューターです。日本にやってくる前から、コンピューターとクレジットカードが人と社会を変えるという確信がありました。金融業はちょっと手に余ったので、コンピューターを選びました。高校の頃に米国からやってきた先生が、コンピューターのことを教えてくれたのも影響しましたね。

奥田 家業の機械関係でもよかったのでは?

 新しいチャレンジをしてみたかったんです。ハードウェアは工場でつくらなければなりませんが、ソフトウェアは一人でもできる。COBOLやFORTRANなどを勉強もしました。その後、コンピューターが仕事になっていきました。

奥田 PC産業が立ち上がる時代をリアルタイムで過ごしてこられたわけですね。

 80年代です。当初はNECや富士通も独自規格のPCでした。日本語が一つの壁になって、PCは国産ばかり。ところが、DOS/VというOSが登場して、世界的に普及していたIBM PC/AT 互換機でも日本語が使えるようになったんです。これはチャンスだと思いました。

奥田 突然黒船が現れたと……。

 日本語が使えるとなると、雪崩を打ったように海外からPCが流れ込んできました。渡米した友人から仕入れた情報など、米国の動向は常にウォッチしていました。

奥田 スタートはどんなビジネスでしたか。

 これはと思うマザーボードを米国から輸入して、秋葉原で売り始めました。85年頃です。秋葉原でも、PCを本格的に扱っているところは、まださほど多くありませんでした。まさに自分のビジネス、自分の時代がきたと思いました。本格的にビジネスを始めたのは90年頃でした。

奥田 PCの黎明期でしたし、いろいろご苦労も多かったのではないですか。

 失敗の繰り返しです。輸入して販売するのはいいんですが、アフターサービスで問題が起きて大変でした。信頼を得るにも苦労しましたよ。まだ数人規模の小さな会社でしたが、幸い大きな損害を被る失敗はありませんでした。
 

父から学んだ 信頼第一のビジネス感覚

奥田 日本語がとてもお上手ですが、どこで学ばれたんですか。

 来日してからです。漢字なら、なんとなく意味は分かります。ただ、カタカナは読めても意味が分からない。そんな状態が長く続きましたね。大学の授業は分からないところも多く、後から意味を調べなければ理解できません。勉強には人の倍の時間がかかりました。ただ、いい友だちができて、その都度説明してもらったりして、ずいぶん助けられました。

奥田 勉強は得意でしたか。

 好きでした。中学と高校は、日本でいう進学校に通いました。両親も教育熱心で、留学もさせてもらえて、ある意味ラッキーでしたね。

奥田 お父様はどんな方だったのでしょうか。

 よく私と弟を連れて出張に出かけ、その際、地理を教わったりしていました。父が仕事をしている間、私たちは台湾名物の海鮮料理を楽しんだりしました。

奥田 ビジネス感覚はお父様譲りなんでしょうか。

 小さい頃は、レストランでの接待というのはほとんどありませんでした。よく取引先の方々を自宅に招いて親交を深めていたようです。身近にあったそんな光景から、少しずつ学んでいったんでしょうね。

奥田 お父様から学んだことで一番印象に残っているのは?

 ビジネスの基本は信頼だ、ということです。信頼を得るにはとても時間がかかりますが、失うのはすぐです。

奥田 ASUSTeK Computer(ASUS)が本格的に日本でビジネスを展開する際にも、ずいぶん尽力されたとか。

 今の会長、ジョニー・シーさんと一緒にASUS JAPANをつくりました。アフターサービスにおいて、本社に可能な限りご負担をおかけしないよう、国内にサービスセンターを立ち上げました。ジョニーさんを筆頭に、ASUSはエンジニアの会社ですから、もともと評判は良かったんです。

奥田 そのとき、ジョニーさんとはどんな話をされたんですか。

 私はいつも「第1に品質、第2に品質、第3に品質」と言っていました。日本は品質にとても厳しいということが、よく分かっていましたから。例えばASUSは、かなり早い段階からマザーボードの拡張スロットに金メッキを施すようになった、と記憶しています。拡張ボードを抜き差ししても、耐久性の高さが維持されていたんです。そんな品質の高さが評価されて、高価でしたがよく売れました。

奥田 新しいものにチャレンジするのがお好きなんですね。

 最新の技術情報から、次はこんな製品が出るだろうと予想して、先取りするのが好きですね。それに沿ったものをいち早く取り入れるんです。次にどんな製品が生まれるのかと考えるのは、楽しいものです。

奥田 技術の進歩で、昔に比べてあらゆるもののスピードが速くなっているように思います。

 スピードアップは時間の節約につながります。人生で一番大事なものは時間です。ほかのものはなくなっても取り戻せます。時間が無くなるというのは、命がなくなるのと同じ。ビジネスもどんどん速く回転するのは、いいことですよね。スピードは大事です。

奥田 社員の方々にもそのように?

 いつもスピードが基本だと言っています。日本はスピードが遅いですが(笑)。
(つづく)
 

父からもらった ロレックスの腕時計

 台湾からの留学生として来日する際、お父様から「もし生活費に困ったら売りなさい。その代わり、ちゃんと学位を取って帰るように」と言われ譲り受けた。当時の日本は台湾に比べて物価が高く、留学にはコストがかかった。しかし、ロレックスの腕時計は心の支えになった。今でも大事にしているという。お父様は20年前に亡くなって、結果的に形見の品にもなった。
 


心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
1000分の第380回(上)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

王夢周

(Monchou Wang)
 1947年、台湾・台北市生まれ。79年、慶應義塾大学商学部卒。80年、ゼネラルサービス(ユニティ)取締役。2000年、同社代表取締役副社長。05年、ユニティ代表取締役社長。11年から現職。12年、エムヴィケー(現アユート)取締役。15年、ソルナック代表取締役会長、16年からソルナック取締役。17年からアユート代表取締役社長。