勉強嫌いの“島の少年”が 一念発起し歯科医を目指す――第277回(上)

千人回峰(対談連載)

2021/02/26 08:00

藤卷五朗

歯科医師・歯学博士 藤卷五朗

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一

週刊BCN 2021年3月1日付 vol.1864掲載

【上野発】藤卷先生とのおつき合いはもう35年以上。ずっと歯科の主治医としてお世話になってきた。そんなプライベートな関係をなぜ本欄で取り上げるかというと、ある縁を感じたからだ。先生は「O‐リングテスト」という、人の免疫力を測る手法を実践されているが、私はずっと懐疑的だった。ところがあるとき、腰痛に悩まされていた私が紹介された四日市の鍼灸師の診療所を訪ねると、そこで最初に目にしたのがO‐リングテストのツール。聞けば藤卷先生はこの分野で有名な方なのだという。テストへの信頼感が少し増した。
(本紙主幹・奥田喜久男)

2021.1.14/東京都台東区のパストラル歯科にて

八丈島から「内地流し」された
家いちばんの困った子 

奥田 今日は歯の治療ではなく、先生ご自身のお話をうかがいにやってきました。

藤卷 患者さんとしては、もう35年近いおつき合いになりますね。

奥田 そうですね。先生の治療哲学については後々お聞きするとして、まずは子どもの頃のお話を聞かせていただけますか。ご出身は八丈島ということですが……。

藤卷 はい、私は昭和19年1月に八丈島で生まれました。でも、戦況の悪化で硫黄島が陥落し、八丈島が本土攻撃の足がかりになることが懸念されたため全島民疎開の命令が出て、私は生後半年で母の実家がある山梨に疎開したのです。

奥田 藤卷家は、もともと八丈島がルーツだったのですか。

藤卷 いいえ、山梨出身の祖父が横須賀で傘職人をしていたのですが、雨の多い南の小笠原地方に行ってみようと船に乗ったのが始まりです。

奥田 でも、どうして八丈島に?

藤卷 船が嵐に巻き込まれ、避難した先が八丈だったということです。その後何度か八丈を訪れ、物品交換の商売をしているうちに、情の深い島の女性と出逢い、ほどなくして私の父が生まれたというわけです。

奥田 最初から八丈島を目指していたわけではなかったと。

藤卷 そういうことになりますね(笑)。祖父は、八丈島で炭やテングサと内地の物品とを物々交換する商売を始めたようでした。その後、八丈島のひとが必要とするものは何でも扱う藤卷商店という小さな百貨店というか年中無休のよろず屋を開き、いまも兄の子が四代目社長として経営しております。

奥田 先生は、どんな少年時代を過ごされたのですか。

藤卷 小学3年生までは野球少年でしたが、4年になると兄たちのいる内地の情報を知りたくてラジオ少年になりました。鉱石ラジオから始まり、出始めたばかりのトランジスタラジオもつくりましたが、ほとんどが真空管のラジオでした。昭和28年から32年頃のことです。

 あとは、遊びといえば、八丈ですからよく海で泳ぎました。また、学校が休みのときは、店の手伝いでいろいろな村に品物を配達に行きました。八丈島には五つの村があったのですが、小さな島なのにそれぞれ言葉が異なり、顔だちも違うのですよ。

奥田 それは知りませんでした。珍しいですね。

藤卷 私は9人兄弟の8番目で、名前のとおり五男なのですが、他の兄弟はみんな成績がよいのに私だけ勉強嫌いでラジオづくりばかりやっていて成績が悪かったのです。「藤卷家始まって以来の困った子」と父からいわれました。

奥田 いまの先生からは、想像がつきませんね。

藤卷 それで、中学3年生になるときに「東京の練馬に住む場所を用意したから、この家から出ていけ」と。

奥田 ずいぶん厳しいですね。

藤卷 島流しならぬ、内地流しですよ。

奥田 なるほど。それはたしかにそうですね(笑)。

音楽を一生の趣味とするために
歯科医師になることを選択する

奥田 お父さまの「内地流し」の意図は?

藤卷 高校受験を控えて、きちんと勉強しろということでした。大好きだったラジオづくりの工具や『初歩のラジオ』や『子供の科学』といった雑誌などラジオづくりに関わるものはすべて持ち出し禁止で、中1、中2の教科書と筆入れ・ノートだけをカバンに入れ、船に乗せられて、練馬区の中学校に転校したんです。

 ただ、父は、私が高校生のとき、進路選択の相談をしたら「五朗君、君のことはわからないな。担任の先生と相談して決めたらいいんじゃないか」と私にいったのです。

奥田 それはちょっとショックですね。

藤卷 兄たちは父の希望を聞いたりアドバイスを受けていたというのに、私にだけそうした対応をしたことに腹が立ちました。そこで、私が父にとって大きな負担のかかる選択、例えば学費の高い進学先を選んだりした場合はどうしますかと問いかけたのです。

 すると父は「君が自分の生きる道として選択したのならば、私は全面的にバックアップするよう努力します」と答えました。そこで、私は私立の歯科大学を選びました。

奥田 お父さまも潔いというか、筋を通すタイプの方なのですね。ところで、実際にそういう話し方をされるのですか。

藤卷 ええ、家ではそういう話し方をしていました。それで、私以外の兄弟はみんなストレートで四年制の大学に進んだのですが、私だけ浪人した上に、六年制の大学に進んだというわけです。

 それでも大学2年生に進級した頃、父に「学費は大丈夫ですか」と尋ねたことがありました。すると、父は「君の大学はずいぶんお金がかかりますね」といった後に、前と同じように「選んだ道だから、バックアップします」といってくれました。

奥田 でも、お父さまへの意地は別として、なぜ歯科医になろうと考えたのでしょうか。

藤卷 好きな音楽の世界にずっと身を投じていたいと思ったからです。

奥田 それで歯科医? 演奏家は志さなかったのですか。

藤卷 大学時代は合唱団にいましたが、演奏家になる才能はないので、音楽は趣味にしようということです。ただ、そのためにはお金と時間が必要ですから、歯科医という職業あたりがふさわしいのではないかと思ったのです。診療中もBGMとして流しておくことができますし。

奥田 そのほかに、歯科医を目指した理由はないのですか。

藤卷 子どもの頃の家訓が、学校から帰ったら、机に向かうかお店の手伝いをするのかのどちらかでした。勉強嫌いな私は当然机には向かわないので、藤卷商店で文房具とお菓子売場の店番をさせられました。だから、ポケットにはいつもお菓子がいっぱい入っている(笑)。そのせいか、私は兄弟のなかで一番歯が悪かったんです。

 だから小さい頃から歯科通いが絶えませんでしたし、嫌いではなかったです。そしてそれはお店番をせずに済む口実でもありました。成長期には本当はよくないのですが、高校生のときには左右の悪い歯を抜いて両側の歯を削ってブリッジにしたりしました。

奥田 よくも悪くも、昔から歯科医になじみがあったと。

藤卷 でも、ブリッジにしたところも数年でダメになり、同じところの治療を何度もやり直すはめになってしまったわけです。そのたびにイヤな思いをするわけですが、こうしたやり直しが歯科医の収入源になっていることに気づきました。

奥田 なるほど、そうした若き日の気づきが、その後の先生の治療方針につながっていくわけですね。(つづく)

ブラームスの交響曲第4番と
ちあきなおみの「黄昏のビギン」

 クラシックファンの藤卷先生だが、音楽はクラシックだけに限らず、当時音楽仲間でよく使っていた言葉に“プレスリーからバッハまで”という合い言葉があったそうで、いわゆる音であれば何でも好むタイプであり、ポップス、演歌とお好みの範囲は幅広い。そのお好みの曲をセレクトしていただき、治療室でしばし聞かせてもらう。うん、両方ともとてもいい。
 


心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第277回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

藤卷五朗

(ふじまき ごろう)
 1944年1月、東京・八丈島生まれ。69年、日本歯科大学歯学部卒業。73年、同大学大学院(薬理学)修了後、エンパイア歯科勤務。77年、パストラル歯科を千代田区神田淡路町に開設。2009年、台東区上野に移転。NPO法人恒志会常務理事、日本顎咬合学会認定医、日本全身咬合学会認定医、Bi‐Digital O‐Ring Test認定医(5段)、NCCP認定カウンセラー、国際鍼電気治療大学(ニューヨーク)歯科部門客員教授。

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