茶を淹れ、蕎麦を打ち 21世紀の寺子屋は千客万来――第187回(下)

千人回峰(対談連載)

2017/07/10 00:00

野村栄一

野村栄一

長屋茶房天真庵 庵主

構成・文/浅井美江
撮影/長谷川博一

週刊BCN 2017年7月3日号 vol.1684掲載

 野村さんの話を聞いていると、実に多彩な方が登場する。建築家、音楽家、IT経営者、獣医――。天真庵の物件は散歩中に偶然出会ったと聞いたが、庵にどんと構えるヒノキのカウンターも同じようなものらしい。人を呼び、ご縁をつなぐ。ご本人は否定されるが、やっぱり野村さん自身が何やら不思議な磁石をもって、人やらモノやらコトやらを引き寄せている気がする。そう思って野村さんをみたが、やっぱり飄々と珈琲豆を挽いていた。(本紙主幹・奥田喜久男)


2017.5.11/押上・長屋茶房天真庵にて

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第187回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

お稽古ごとも多種多様 寺子屋カフェは大賑わい

奥田 ソフトバンクを辞められて、その後はどうされたんですか。

野村 秋葉原にお店をもっておられる二代目の方が「うちに来ませんか」と引っ張ってくれたんですが、その方に個人的な事情があって急に会社を辞められることになって……。辞められる時に、届書みたいのをいただいたんです。

奥田 それにはなんて書いてあったんですか。

野村 「せっかく声をかけて来てもらったのに申し訳ない。自分の代わりに、この先野村さんの右腕となるような優秀な人物を送るから」って書いてありました。

奥田 その人は来たんですか。

野村 来ました。それが今の嫁さんです。

奥田 ええっ!?

野村 (笑)

奥田 それもまた大したご縁ですねえ。それからは、ITの会社を経営されたり、協同組合をつくられたり、ご自宅でギャラリーを開かれたりと……。なぜギャラリーだったんですか。

野村 ギャラリーは直感ですかね。バブルが弾けて短期的に貸し出されていた家が、二人で住むにはあまりに広かったんですよ。ちょうど好きな画家さんとの出会いもありましたし。そこにいろんな方がいらしてくれまして。

奥田 それで10年前に押上に移られた。現在はここでどうされているんですか。

野村 1階は蕎麦と珈琲の茶房です。私が蕎麦を打って珈琲を淹れて昼夜営業しています。2階を“21世紀の寺子屋”と称して、いろんな方のお稽古ごとにお貸ししています。いわば寺子屋カフェですね。

奥田 2階のお稽古はいくつくらいあるんですか。

野村 中国語、英語、論語、お茶、お花、珈琲、かっぽれ、ヨガ、気功……、この気功がすごく評判がよくて全国から人がいらっしゃるんですよ。それから、お仕覆、漢詩、蕎麦、話。飛行機のパイロットさんに飛行機の話をしてもらうとか。“女史会”というのもあります。これは日本史を女性の立場からみるという内容で、女子大の教授が学校では取り上げられない題材をお話ししてくれるというものです(笑)。

奥田 盛りだくさんだ。因みに新しい講座はどうやって決まり、始まるんですか。

野村 こちらからお願いすることはないですね。カウンターで飲んだり食べたりしているうちに何となく「やってみたい」という人が現れ「そんならどうぞ」という感じですかね。

奥田 参加する人はどうやって集めるんですか。

野村 とくに集客はしませんが「こんな講座が始まるよ」と常連さんに話すと「じゃあ行ってみようかな」って。そこからは友達とか口コミとかで広がって……。そうそう、思い出した。「菌活の会」っていうのがあって冬に味噌をつくるんです。最初は生徒さん一人だったのが、7年経ったら93人になっちゃって!

奥田 それはすごい人数だ。

野村 味噌づくりは一度に3~4人ずつくらいしかできないから、100人になったら無理かなあなんて先生は話してますけど。こないだはベルギーでやってくれと頼まれたらしくて、来年行こうかなって言ってました(笑)。

奥田 そういえば、野村さんもどこか外国へ蕎麦打ちに行かなかったですか。

野村 行きました。ここの近所の春慶寺さんというお寺に蕎麦打ちの出張に行ったら、そこにベトナムのホテルマンがいらしてて、「ベトナムで打ってほしい」って。3年前くらいかな。醤油運んだり、道具持ち込んだり事前準備が大変でしたよ。

10年後はキャンピングカーで
全国にいる弟子巡り?

奥田 蕎麦打ちの始まりを教えていただきましょうか。

野村 知り合いの建築家の方が、蕎麦の神様と呼ばれる高橋邦弘さんの道場と家を建てられたんですが、「野村さん、ギャラリーやってるんだったら蕎麦打てた方がいいと思うよ」とか言って、広島まで行かされました。

奥田 行かされた(笑)。

野村 そうですよ。4日間広島の山にこもって蕎麦打って。蕎麦好きの人には「あの蕎麦の神様に習ったの? どうしてそんなことができるの?」って言われましたけど、どうしてって言ってもね。勝手に行かされたというか(笑)。

奥田 おもしろいなあ。縁ですかね~。

野村 こうしてしゃべっていて改めて思いましたけど、僕は自分で引き寄せてはいないですよ。お引き寄せをするほど真意をもっていないというか。好き嫌いはけっこうはっきりしてるんですけど、なんか勝手に蕎麦修業に行かされたりと(笑)。

奥田 じゃあ、今の状態は計画を立ててやっているわけじゃないんだ。どちらかというと成り行きですか。

野村 成り行きというか、ご縁ですかね。音楽もそうです。ひょんなご縁でご近所さんから使わないピアノをいただいたら、調律師の方が現れて直してくれて。そのうち音楽家の方々がいらしてくれて、ライブを開くようになりました。

奥田 それも計画していたわけじゃない。

野村 そんな風に想定外のことに引っ張られていくことが多いんです。ただ、病気をしなければ日本ソフトバンクという会社を後輩の孫さんがやっているという情報には巡り合ってなかったし、IT業界に関わることもなかった。ですから何かしらのつながりというか与えられた役割というかは、あるのかなと思いますけどね。

奥田 ここでは何を楽しんでおられますか。

野村 毎日、店を開けますよね。今日は誰が来るのかわからない。IT業界にいては出会えない人がたくさん、勝手に来る(笑)。それは本当におもしろい、醍醐味です。

奥田 最後の質問。10年後は何をしていますか。

野村 健康だったらなんでもできます(笑)。今ね、加速度的に若い人たちが変わっているのを感じるんです。世の中が大きな曲がり角に来ている感じがする。こういう時に新しい芸術とかが生まれる気がしますね。

奥田 感じますか。

野村 だって今のままだと斜陽のまま日本人が終わっていきそうじゃないですか。だからこれからまた時代がおもしろくなると思います。

奥田 場所はここで。

野村 そうですね。でも弟子たちがぽつぽつ田舎暮らしを始めているんです。ざっくり15~16人かな。全国にいるのでキャンピングカーを買って、いろんなところを回りながら行くのもいいかなって嫁さんが言ってて。それもいいなと思います。
 

こぼれ話

 「茶を淹れ、蕎麦を打ち  21世紀の寺小屋は千客万来」――これは今回のタイトルだ。美しい含みをもっている。読者の皆さん、記事を読み進めるうちに野村さんの生き方に何か共通した力をお気づきになりませんか。意思を超越した“ご縁”という力で自分の環境がつくられていく、ということ。私は20年を超えるつき合いのなかで、いつからとは明言しにくいが、野村ワールドはくっきり目に見える形となっていた。
 

 今年、押上の店は10周年だ。「開店の時には薔薇の花を贈ってくれましたよね~」と、催促のような一言をいただいたので、薔薇を贈った。取材の日には渋めの焼き物で煎茶のもてなしを受け、浮世離れした寺小屋稼業の話を聞いた。聞き進むうちに本業がみえにくくなる。本業は何だろうかと聞き進むうちに、野村さんには思い描くゴールがないことに気づいてきた。

 屋号は“天真庵”という。店のメニューはコーヒー、煎茶、蕎麦そして酒とあて。売り物は作家ものの陶器。店主の野村ワールドは、「今日いち日、どんな人との出会いがあるのかな」、から始まる。不思議なことに“ご縁”があると客はオーラを放つ。そのオーラが他の客のオーラと化学反応を起こす。この成果物からライブという形で寺小屋が生まれる。この現象を引き出すところが野村ワールドだ。その秘訣を聞くと「ご縁なんですよねえ~、不思議なんですよねぇ~」。こうした話は活字づらだけだと、狐につままれたような気分だが、天真庵に踏み込むと、何とも居心地がよいのである。
 

Profile

野村栄一

(のむら えいいち)
 1956年福岡県生まれ。立命館大学法学部中退。末川博先生(京都名誉市民・立命館大学名誉総長)に憧れ入学。末川先生最後の講演に感銘を受けた直後、珈琲「からふね屋」のモカに魅せられ弟子入り。珈琲の淹れ方から接客、京都の始末の真髄を叩き込まれ、大学生活中に6店舗を任される。大学中退後、日本ソフトバンクに入社。その後、IT会社経営、IT系協同組合立ち上げ、自宅でのギャラリー運営などを経て、50歳で墨田区押上で「長屋茶房天真庵」を始める。蕎麦は蕎麦打ちの神様といわれる高橋邦弘名人の直伝。織田流煎茶道・正教授。茶名は南九。