「戦後の人生は余生」生への感謝で国に尽くす92年――第170回(中)

千人回峰(対談連載)

2016/10/24 11:27

池田 武邦

建築家・実業家 池田武邦

構成・文/大蔵大輔
撮影/長谷川博一

 戦争から奇跡的な生還を果たした池田武邦さんは、1946年に東京帝国大学第一工学部建築学科に入学。海軍から一転、建築の世界に足を踏み入れた。卒業後は山下寿郎設計事務所で建築家として頭角を現し、日本初の超高層ビルである霞が関ビルの設計チーフを務める。若くして役員に就任するが、42歳のとき、安定した地位を捨てて日本設計事務所の立ち上げに参加。半世紀前の決断をきいた。(本紙主幹・奥田喜久男)


2016.8.12/ひばりが丘図書館にて


「ハウステンボス」の意味をご存じですか。それがわかると価値が増します

 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男

<1000分の第170回(中)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

東大から建設業界へ日本設計を立ち上げる

奥田 霞が関ビル(※)を設計されていたとき、山下寿郎設計事務所にいらっしゃいました。なぜ辞めたのですか?

池田 40代で役員に取り立てられましたが、役員会でいろいろと口を出すもので、「出ていけ」となった。そうしたら、副社長や専務もあとに続いたんです。200人くらいいた社員の半数以上が辞めました。

奥田 社長はどんな方だったんですか?

池田 映画「ケイン号の叛乱」で、ハンフリー・ボガートが演じていた駆逐艦の艦長タイプ(笑)。海軍兵学校をトップで卒業して、若くして艦長になるのですが……。

奥田 なんとなくわかる気がします。「ケイン号の叛乱」を観られたのは、辞められてからですか。

池田 そうです。いろいろ苦労していたときに観て、「これか」と納得したのを覚えています。

奥田 それで日本設計を立ち上げられたわけですね。まさに反乱軍の将校だ(笑)。

池田 あの映画を観ると、日本設計の成り立ちがよくわかると思いますよ。当時は楽しくてしょうがなかった。43歳ですから、ちょうど駆逐艦の艦長くらいの年齢で、日本設計はまさに矢矧でした。

奥田 矢矧の乗組員は何人だったのですか。

池田 800人ほどでしょうか。だから、日本設計創立時の107人のマネジメントなんてらくでしたね(笑)。もともと独立してもやっていけるくらい能力の高い人しかいませんでしたし。

奥田 マネジメントで大事にされていたことはなんでしょうか。

池田 一人ひとりに責任を与えることですね。それと会社のフィロソフィを明確にすること。社員全員、107人を10人程度のグループに分けて、経営理念をディスカッションしました。矢矧でも最小のグループ単位は同じくらいで、顔を合わせてお互いの表情がわかることが大事。いやいややっているのか、積極的にやってるのかを見極めないといけない。社員が自主的に答えを出すことが重要で、僕はプロセスを用意するだけです。独立して1年はかかったかな。

奥田 それは池田流ですか。

池田 いや、これは海軍流です。階級の上下はあるけれど、下の人間も伸び伸びと自分のやりたいことができた。もちろん上に報告はしますが、士官のもっている権限は大きかった。そういった海軍の気風を日本設計にも取り入れました。

奥田 だから日本設計の裏の名前は「矢矧」なんですね。
 

オイルショックで経営者の苦労を味わう

奥田 経営者としての苦労はありましたか。

池田 日本設計の社長時代にオイルショックを経験しました。当時300人くらいの社員を抱えていたのですが、仕事がなくて給料を支払えなくなった。それで、北海道の農協まで頭を下げに行きました。

奥田 江田島出身で東大に行った社長が、農協の理事長に頭を下げるというのは、かなりきつい場面ですね。

池田 戦争に比べれば、どうということはありません。殺されるわけじゃない。一度死んだと思えば、頭を下げるくらいは大丈夫です。でも、僕はお金のことが本当に苦手で、今でも勘定が全然できない(笑)。

奥田 それにしては非常に立派な会社の舵取りをしてこられました。逆にご自分で得意とされていることは何ですか。

池田 信頼できる人間を抱えていることです。会社の危機も、経理の人間がきちんとやってくれたから乗り越えることができた。本当に人には恵まれました。

奥田 お話をうかがっていると、もし戦時中の体験がなくても、ご自身の資質で結局同じような人生を歩まれていたのではないか、と思えてきます。

池田 どうでしょうか(笑)。でも、仕事で落ち込むことは何度もあったけれど、戦時中の苦労を思い出して、だいたいのことは乗り越えてきた。やっぱりあの体験なしでは、とても同じことはできなかったと思いますよ。(つづく)

「戦後の人生は余生」生への感謝で国に尽くす92年――第170回(下)
建築家・実業家 池田武邦

 


私(奥田)は1971年に伊勢の大学を終えて上京した。
この霞が関ビルを見上げて、「これが東京だ」と思った

 
※東京都千代田区霞が関三丁目にある地上36階、地下3階、地上高147mの超高層ビル。1965年3月に起工し、68年4月に竣工した。動的設計法による柔構造を採用する。設計は山下寿郎設計事務所、施工は三井建設と鹿島建設による共同企業体(JV)で、事業主体は三井不動産。

Profile

池田 武邦

(イケダ タケクニ)
 1924年、静岡県生まれ。40年、海軍兵学校入学。43年に卒業し、大日本帝国海軍軽巡洋艦・矢矧に少尉候補生として着任。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄海上特攻に出撃するが、奇跡的に生還する。46年、東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後、山下寿郎設計事務所(現・山下設計)を経て、67年、日本設計事務所の設立に参加。日本を代表する超高層ビルの建設に従事する。83年、長崎オランダ村、88年、ハウステンボスを設計。93年の会長就任後に池田研究室を立ち上げ、次世代の都市や建築の姿を追求する。

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