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教育や文化を通じてサウジと日本の懸け橋になる――第169回(上)

イサム・ブカーリ

イサム・ブカーリ

サウジ・リサーチ&マーケティング・グループ 最高ビジネス開発責任者

構成・文/小林茂樹
撮影/川嶋久人

週刊BCN 2016年09月26日号 vol.1646掲載

 20世紀最後の日、私はムスリムと友達になるべきだと考えた。信者数でいえばキリスト教、イスラム教、ヒンズー教の順であるが、私がそれまでに得た知識の座標軸はキリスト教文化圏にあることに気づいたからだ。ムスリムの世界を知り、人と会い、国もみなければバランスがとれない。そんなとき出会ったのが、まだ学生だったイサムさんだ。年齢は離れているが「よし、友達になろう」と思ったことを鮮明に思い出す。(本紙主幹・奥田喜久男)

2016.7.20/東京・千代田区のBCN会議室にて
 

 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第169回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

アラブ世界から新しいファンタジーを生み出したい

奥田 2001年に早稲田大学で初めてお会いしてから、もう15年ですね。

イサム あのときは、まだ理工学部の4年生でした。

奥田 昨年、サウジアラビアに帰国されましたが、母国ではどんなお仕事をされているのですか。

イサム 今年3月に東京で記者会見を開いたのですが、SRMG(サウジ・リサーチ&マーケティング・グループ)というアラブ世界のメディアグループで新しいビジネスを担当することになりました。SRMGは、これまで新聞や雑誌を中心にビジネスを進めてきましたが、そうした既存のビジネスを守りつつ、マンガやアニメ、ゲームにも力を入れようということになったのです。

奥田 マンガやアニメをつくるのですか。

イサム 当初は日本のマンガやアニメのローカライゼーション、つまり日本語をアラビア語に翻訳したり文化的にそぐわない部分を修正しようと考えていたのですが、その後方針が変わり、単なるローカライゼーションではなく、made with Japanという考えのもとでゼロから新しいものをつくろうということになりました。

奥田 そこにはどんな発想があるのですか。

イサム 制作にあたっては、日本との協力がメインになりますが、他の国々とも協力して何か新しい価値を見出そうと思っています。つまり、ただノウハウを移転するのではなく、アラブ世界のなかから何か新しいものを発信していきたいと考えているんです。

奥田 吸収するだけでなく発信もする。

イサム 例えば「千夜一夜物語」は、アラブ・イスラム世界から伝わった中世のファンタジーです。いまでも魔法のじゅうたんやアラジンと魔法のランプの話は人気がありますが、これは私たちの文化から生まれたわけです。ですから、もう一度、新しいファンタジーを生み出したいと思いますし、子どもや若者が模範とするような、道徳や倫理を大切にするヒーローをつくっていきたいですね。

奥田 道徳的なヒーローですか。

イサム 私が理想とするヒーローは、お酒を飲まず、変な性的関係をもたず、武器をもっていない人や子ども、女性、弱いものを決していじめたり殺したりしません。こうしたヒーローが、今の若者には必要ではないかと考えます。

奥田 真面目なあなたらしい(笑)。
 

「キャプテン翼」を心の支えに

奥田 ところで、前々から聞きたかったのですが、なぜ日本に来ようと思ったのですか。

イサム 私は1978年生まれですが、80年代のわが家には、日本の家電製品や自動車がすべて揃っていました。そして、私も「キャプテン翼」や「ベルサイユのばら」など、日本のアニメをみて育ちました。

奥田 もともと日本にはなじみがあったのですね。

イサム そうですね。私は奨学金で私立の高校に通っていたのですが、3年生のとき、学校のオーナーに呼ばれて日本への留学を勧められました。ハーバードやMITをはじめ、米国の大学にはたくさんの卒業生が留学しているが、日本にはほとんど行っていないからという理由です。

奥田 周囲の人の意見はどうでしたか。

イサム 反対もありました。日本語が話すことができるようになっても、サウジアラビアに帰って何の仕事にもつけないだろうと。その一方で、日本はG7のなかで唯一のアジアの国だから、ぜひそのシステムを学んできたほうがいいという意見もありました。私は、ある程度、英語を話すことができたため、日本語も英語もアラビア語も話すことができるようになれば、ユニークな人材になれるのではないか、あえて自分だけ違うことをやったほうがいいのではないかと考え、日本への留学を決めたのです。

奥田 お母さんの反応はどうでしたか。

イサム 最初は非常に心配していましたが、いろいろと説明をしたら、「イサムの未来はイサムが決めなさい。責任をもって頑張りなさい。最後まで応援するから」と言ってくれました。

奥田 立派なお母さんですね。それで、来日したのは?

イサム 96年9月22日、真夜中の成田空港に着きました。

奥田 そのときは、どんな気持ちでしたか。

イサム もちろんワクワクです。このとき一番知りたかったことは、日本は戦後、なぜミラクルを起こすことができたのかということでした。

奥田 18歳でそんなことを考えていたのですか。

イサム 実はサウジ・サイエンスクラブという組織があり、ここが学生をいろいろな国に連れて行ってくれるのですが、私は94年にフランスに行かせてもらいました。軍用飛行機の工場やパスツール研究所など、いろいろなところを見学させてもらったのですが、このとき非常に大きな衝撃を受けました。

奥田 それはどのような衝撃でしょう。

イサム 自分の国を発展させなければならないという衝撃ですね。それはいまでも、私の人生における使命だと思います。ですから、日本に着いたときもそうした思いでいっぱいでした。自分はこれから新しい世界に挑戦するんだという。

奥田 大きな志を抱いて、日本に来られたのですね。

イサム 最初は日本語学校に入ったのですが、教室には中華圏の人ばかり。非漢字圏の出身者は私だけでした。数学や物理の高校での教育レベルはアラブ世界と日本ではかなり差があり、大学に受かるためにはそのギャップを埋めなければなりません。ですから、朝から夕方までは日本語学校で学び、夜は別の学校で数学と物理の勉強です。それも自分への挑戦だと思い、いつも「キャプテン翼」のことを思い出していました。翼は自分がつらい立場にいればいるほど頑張るからです。

奥田 そして大学受験ですか。

イサム 最初のうちは何校か失敗して落ち込みましたが、おかげさまで第一志望の早稲田大学に合格することができました。印象に残っているのは面接試験です。「日本はサウジアラビアとは文化が違いますが大丈夫ですか」といわれたとき、「郷に入れば郷に従えです」と答えたら、もう他の大学を受けなくていいですよと言ってもらえたのです。

奥田 すごい日本語力だ!(つづく)

イサム・ブカーリ氏の発言は個人的なものであり、サウジアラビア王国やSRMG(サウジ・リサーチ&マーケティング・グループ)を代表するものではありません。

教育や文化を通じてサウジと日本の懸け橋になる――第169回(下)
サウジ・リサーチ&マーケティング・グループ 最高ビジネス開発責任者 イサム・ブカーリ

 

リアドの自宅に設えた書棚


 昨年夏、東京からサウジアラビアに帰国して真っ先に準備したのがこの造りつけの書棚。引っ越しの際には、本だけで段ボール200箱分もあったそうだ。「電子書籍の時代なのに現物がないと安心できないんです」とイサムさんは笑う。

Profile

イサム・ブカーリ

(Essam Bukhary)
 1978年、サウジアラビア・タイフ生まれ。96年9月、留学生として来日。2002年、早稲田大学理工学部経営システム工学科卒業。05年、早稲田大学大学院理工学研究科経営システム工学科修士課程を経て、08年、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程修了。サウジアラビア王国大使館文化部文化アタッシェを務める。15年7月に帰国、現在に至る。