久々にお会いした二上さんの胸には、大ぶりなフクロウのペンダントがぶら下がっていた。「知恵の神様ですか」と問うと、即座に「違う! 苦労しないからフクロウ(不苦労)。ここはフクロウのメッカ、いけフクロウ(池袋)」と、いきなりオヤジギャグで返された。少しだけ個性的なファッションと磊落な話しぶりに幻惑されつつも、東京を一望する超高層フロアの一室で対談が始まる。本音満載のおもしろい展開になる予感がした。(本紙主幹・奥田喜久男)

2016.2.24/東京・豊島区の日本ブレーン本社にて
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第159回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

営業するのが嫌いだから、JIETをつくろうと思った

奥田 あいかわらず、大きな声ですね。さて、私にとっての二上さんは、日本ブレーンの会長というより、NPO法人日本情報技術取引所(JIET)の理事長というイメージのほうが強いんです。JIETの理事長は何年間務められたのですか。

二上 いま、JIETは20期で、私が引退したのが2年前だから18年間です。日本ブレーンは1985年創立ですから、31期目。自分の会社をつくって10年ほどしてJIETをつくったことになりますね。

奥田 二上さんがJIETをつくられたとき、すごい価値のあることをされたなと思いました。日本ブレーンも立派ですが、JIETはとてもすばらしい。

二上 昔、小学校5年か6年の教科書に載っていた「十和田のヒメマス」という話をご存じですか。それまで食べられる魚が棲んでいなかった十和田湖にヒメマスの稚魚を放流して養殖を試みる話です。財産をどんどん注ぎ込んで、大きくなって戻ってくると期待するもののなかなか結果が出ない。数年経ってもうだめかとあきらめたときに、大きくなったヒメマスがいっせいに戻ってきた、という話がいまだに頭に残っているんです。

奥田 僕も覚えています。でも、それとJIETとどう関係があるんですか。

二上 IT業界というのは、みんな営業が下手です。この業界の営業をみていると、それはよくわかります。だから、仕事を回す取引所みたいなものがあって、そこのメンバーになって参加すれば仕事が請けられるという仕組みがあればいいと思うでしょう。

奥田 なるほど。小さなヒメマスたちに仕事を回して大きく育てようと。

二上 そういった団体が窓口になって、仕事をたくさん出してもらえればみんな大喜びですよ。

奥田 その構想はいつ頃から温めていたのですか。

二上 創立準備を始めたのが45歳のときだから、95年ですね。96年4月に発足しています。

奥田 構想したらすぐできちゃう?

二上 すぐにはできませんよ。2、3か月はかかります。

奥田 それでも2、3か月。すごいですね。なぜ、そんなアイデアが生まれたのでしょう?

二上 私自身、営業するのが嫌いだからです。だから、そういう団体をつくったらいいよねという感覚ですね。

奥田 95年頃にそれをつくろうと思われたきっかけはなんだったんですか。

二上 きっかけ……。朝起きて、そういうのがあったらいいなと、ふと思っちゃたんです。うふふっ。

奥田 神が下りてくる。

二上 そうそう。そういうのをつくったらいいな。みんな入るだろうなと。

奥田 立ち上げはどんな形で?

二上 知り合いのソフトハウスなど10社ほどに話をもちかけて、こういう構想があるんだけれどやらないかと誘ったんです。

奥田 反応はどうでしたか?

二上 「いいね、おもしろいね」といってくれました。みんな、仕事を確保してくれる団体がほしかったんです。やはり、どちらかといえば自分から仕事を取りに行くのではなく、頼まれてやるというタイプが多かったのですね。結果的にこの10社が最初の理事になって、JIETはスタートしました。

奥田 その後はどのように展開していったのですか?

二上 10社でスタートし、会員企業が30社まで増えた時点で日本経済新聞が取材に来てくれたのですが、記事が出たら1か月で100社にまで増えました。

奥田 そこで勢いがついたわけですね。

二上 年間100社くらいずつ増えていって、創立10年で1000社を超えて、ピークが2008年の1318社です。そこからリーマン・ショックの影響もあり、不況が始まったことから、脱退する企業がじわじわと出てきたわけです。

奥田 理事長を退任するときは何社でしたか。

二上 800社くらいですね。

奥田 ということは、10社から800社に増やしたわけですね。これはすごい業績だと思いますよ。
 

鋼鉄の世界からソフトウェア開発への転身

奥田 ところで、二上さんはどんな経緯でITの世界に入られたのでしょうか。

二上 兄が東京でソフトハウスをつくって、私に手伝えと呼ばれて、田舎から出てきたのが始まりです。

奥田 それは何年のことですか。

二上 私が28歳のときですから、1978年ですね。

奥田 それまでは何をされていたのですか。

二上 出身は富山の新湊市(現・射水市)ですが、地元の高校を卒業して、家から歩いて10分くらいのところにある神戸製鋼系の日本高周波鋼業という鉄鋼会社で働いていました。

奥田 どんな職種だったんですか。

二上 事務系で入ったのですが、結局10年間、現場から引き上げてもらえませんでした。現場で頑張りすぎて放してくれなかったんです。

奥田 できすぎちゃったんだ。

二上 それで兄から呼ばれて、ようやく上京できたわけですが、実はそれまでに何度か家出を企てて、そのたびに連れ戻されていました。

奥田 東京に出たくても出られなかったと。

二上 新湊はその名のとおり港町ですが、かつて父親は海運業で儲けていました。能登、富山、新湊の間を行ったり来たりして、木材や砂利を運搬していたのです。

奥田 二上家は、羽振りがよかったわけですね。

二上 ところが、父がその財産を使い果たしてしまったため、大学にさえ行かせてもらえず、私の給料が生活の糧になっていたんです。

奥田 お兄さんは?

二上 兄も高卒ですが、山一證券に入社して電算室で働いており、その流れで独立してソフトハウスをつくり、私の上京のきっかけをつくってくれました。ただ、兄はとても勉強ができ、優秀だったものの、経営には失敗してしまいます。そして私は兄とけんか別れと……。

奥田 いよいよ波瀾万丈の人生ですね。(つづく)

 

会長室に鎮座するキリン

 キリン(想像上の「麒麟」)は、中国に伝わる四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の中央に位置する、最高の獣の象徴だという。二上さん自身が、日本ブレーンが入居しているサンシャイン60にあるワールドインポートマートで購入したもの。でかい!