専業主婦だからといって経営にノータッチの選択はなかった――第138回(上)

坂本 佳子

坂本 佳子

ライジングサンコーポレーション 代表取締役

構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2015年06月22日号 vol.1584掲載

 ソフト会社の社長令嬢として不自由のない学生生活を享受し、結婚後は2人のお子さんにも恵まれて幸せな日々を送っていた坂本さんだが、ある日その状況は一変する。経営にもITにも無縁だった専業主婦が、一家を守るため父君が経営していた会社を立て直すことを決意するのだ。失礼ながら、その優しげな外見からは想像できない決断力やある種の覚悟は、並みの経営者にはもち得ない強靭さを帯びているように感じられた。(本紙主幹・奥田喜久男)

2015.3.11/東京・千代田区のBCN本社にて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第138回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

ある日突然、降って湧いた社長就任の話

奥田 坂本さんは、専業主婦から経営者に転身されたわけですが、そこにどんな経緯があったのでしょうか。

坂本 私の父は日立ソフト(日立ソフトウェアエンジニアリング、現日立ソリューションズ)への派遣事業を行う会社を経営していたのですが、バブル経済崩壊後の心労がたたって体調を崩し、経営の舵取りができなくなってしまったんです。2003年のことですから、もう丸11年が過ぎました。

奥田 そこで、いきなり社長になられたのですか。

坂本 私は会社のことについてまったく知らなかったのですが、ある日突然、税務署の方が話があると家に来られたんです。父の体調がおかしくなってきた時期ですが、実は会社の状況が大変だということをそこで初めて知らされました。会社を再生するためには、まず社長を交代させる必要があると。

奥田 寝耳に水だったわけですね。

坂本 そうですね。当時、子どもがまだ2歳と4歳で、公園で遊ばせて帰ってきたら、背の高いいかつい男の人の前で母親がオロオロしていたんです。どうしたのかと思って話を聞いてみると、実は大変なことになっていると。

奥田 そのときは育児に専念されていたわけですね。

坂本 はい、結婚して8年くらいですね。いま、専務として技術者を率いている主人は、実は新卒で父の会社に入っているんです。私が大学を卒業してすぐ、父から「いい人がいるから会わないか」と紹介され、その1年ほど後に結婚しました。私が二人姉妹の長女なので、婿養子に入ってくれたんです。

奥田 なぜ、会社でキャリアを積んでいるご主人ではなく、いわば素人の坂本さんが経営を引き受けたのですか。

坂本 これからどうするか話し合ったのですが、当時、主人は日立ソフトに派遣されていたので、主人が社長になってしまうと、その1人月分の収益が減るということがありました。財務状況が最悪の時期にそれはもったいないという話になって、じゃあ私がやると。あと、お金の問題だけでなく、せっかく婿に来てもらったのに、私の父の後始末をお願いすることは忍びなかったんです。

奥田 よく決断されましたね。

坂本 やめることはいつでもできますし、日立ソフトの仕事はありましたから、やれるところまでやろうと決めたんです。

奥田 経営者は「やる・やらない」と言いますが、中途半端で決断できない経営者も少なくありません。

坂本 それはありませんでした。年老いた祖母も同居していましたし、これまで通り家族全員で暮らしていくためには、やらないといけないんだと。やらないという選択はないと思いました。
 

パソコンを触ったこともメールをしたこともなかった

奥田 社長を引き継いだとき、社員は何人でしたか。

坂本 9人です。ただ、当時は全員が派遣先で仕事をしていたこともあり、オフィスがありませんでした。派遣先である日立ソフトは横浜の桜木町にあったので、ランドマークタワーにある貸会議室に集まってもらい、はじめて社員たちと会いました。「今日から私が社長です。よろしくお願いします」といったら、みんなポカーンとしていましたね。そのときは、社員を不安にさせないよう日立ソフトの方にも来ていただき、説明してもらったんです。

 社長になったとはいえ、私はまったくITのことがわかりません。IT用語に多いアルファベットの略号もさっぱりわからず、社員に教えてもらうばかりでした。このときはじめて、家にあるパソコンの使い方を主人から教わったんです。それまでメールをしたこともなく、パソコンに触ったこともありませんでした。まだ、メールを毎日チェックするという習慣がなく、日立の方からもらったメールを3日後に見て返信したらひどく叱られました。「いますぐ来い」と呼び出されて、「メールというのはこういうものだ」と教えてもらったのです。また、当時は名刺に「パソコンのサポート&サプライ」というキャッチフレーズを入れていたのですが、名刺交換をしたときに「サポート&サプライと書いてあるけど、どんなサポートやサプライができるのか」と聞かれて言葉に詰まり、「自信をもっていえないんだったらそんなことは書くな」とまた怒られて(苦笑)。その方はたまたま私たちの仲人をしてくださった方なのですが、実の娘に対するように、叱りながら、メールの書き方から始まって、手取り足取り教えてくださったんです。

奥田 ということは、社会人経験はゼロだったのですか。

坂本 いいえ、大学を卒業してふつうに就職しました。最初に入ったのは東急ハンズという会社で、そこで販売に携わりました。接客は好きでしたね。結婚してからは、洋書を輸入して書店に卸している会社で事務の仕事をしていたのですが、通信手段はまだFAXと電話だけでした。

奥田 2003年頃だと、メールはかなり普及していましたね。その時期にパソコンもIT用語もはじめてですか。バランスシートは?

坂本 初めてです。決算書を見てもさっぱりわからないので、簿記の学校に通って2級の資格は取りました。その方面の知識がないと、仕訳をみてもイメージがつかめませんから。

奥田 会社に経理の人はいたのですか。

坂本 いませんでした。だから、会社がおかしくなったのだと思います。現在も経理は私がみています。もっとも、私以外は全員エンジニアなので、総務も営業も兼務ですが……(笑)。

奥田 最初は途方に暮れたのではないですか。

坂本 そうですね。社長をやるといっても、何から進めていいかわからないし、誰も経営のことを教えてくれません。それで、主人の父が税理士さんを紹介してくれて、その担当の方と一緒にこれまでの決算書を精査しました。最初の1年間で、どんなお金の流れがあって、いまに至っているのかを調べていったのです。すると、粉飾決算による架空売上げが見つかり、5年分ほどの更正請求をして、かなりの金額の税金を以後の利益と相殺することができました。そのあたりから始めて、なんとか返済を進めていったという感じですね。

奥田 うーん、よく頑張られましたね。(つづく)

 

大切な方からいただいた名刺入れ

 坂本社長が愛用している名刺入れ。「私が会社を継いで丸10年が経った誕生日に、いつも応援していただき、大変お世話になっている方が『これからもっと会社がよくなるように』と誕生日にプレゼントしてくださいました。名刺交換をするたびに、向こう10年も頑張ろうといつも思います」。

Profile

坂本 佳子

(さかもと けいこ) 1972年東京生まれ。94年青山学院大学文学部英米文学科卒業。東急ハンズ、洋書輸入卸の三善勤務の後、出産を機に退職。2003年、父親の体調悪化により、ライジングサンコーポレーションの社長に就任。