オフコンとパソコンの境目から“今”を俯瞰する――第34回

千人回峰(対談連載)

2009/02/16 00:00

久田仁

久田仁

内田洋行 相談役

 久田 1960~61年頃ですね。大きなものは作れないため、最初から小型コンピュータです。紙テープでバッチ処理するもので、700~800万円ほどしました。当初は、空調の管理などが必要でしたが、数年後には一般のオフィスで使えるようになりました。72年頃にオフコンブームが起こり、85年頃まではオフコンの時代だったといえるでしょう。当然、内田洋行の当時の事業の柱はこのコンピュータ事業でしたね。

 成功したオフコン事業では全国に販売網があり、USACという自社ブランドをもっていました。ところが、パソコンの時代になると、商品アイテムが膨大になり、自社ブランドもない。そうなると、何を主体にするべきかわからなくなってしまったんですね。かつてはハードで儲けていたのですが、パソコンがどんどん安価になり、そこで利益を得ることが難しくなりました。つまり、ソフトの時代になったわけです。そういう時期に力をつけてきたのが、これまでハードメーカーの傘下にあった大塚商会やオービックであるということですね。

 奥田 レガシーのシステムにはハードに独自のソフトが付属していた感じだったのが、パソコンのようなオープンシステムになって、ソフトが独立するようになった、と。

 久田 そうですね。どのメーカーのパソコンにも同じソフトが乗るようになったことは、非常に大きな変化でした。

 その後は、パソコンを制覇するメーカーがコンピュータ市場を制覇するという形になりました。これは、最近一部の家電量販店が巨大化し、メーカーより強くなっている状況によく似ています。
 

「つくる力」より「売る力」

 奥田 どうして、そういった主役の交代が起こるのでしょうか。

 久田 戦後のモノのない時代には、そのモノを集めてくる卸が強かったのです。その後、メーカーの生産体制が整うと、主導権は徐々にメーカーに移ります。そして、モノが量産され、供給が需要を上回るようになると、「モノをつくる力」より「モノを売る力」のほうが重視されるようになります。

 そしてメーカー間で商品力の差がなくなってくると、さらに「売る力」が必要になってくる。つまり、小売店の力が強くなるんです。これは、まさにいまの状況ですね。

 奥田 なるほど。ところで内田洋行は卸からスタートしていますね。

 久田 そうです。もともと卸なんですが、現在も卸なんです。ただ、卸だけれど研究開発部隊をもっていて、小さなメーカーに製品をつくらせていました。いまでいうファブレスですが、戦略的に弱いところがありましたね。

 奥田 いやいや、新しいビジネスモデルを先取りしていたのかもしれませんよ。

 久田 そう捉えれば、もう一度面白くなるチャンスはあるかもしれませんね。

 奥田 スタート時といえば、内田洋行は1910年創業ということですから、非常に長い歴史をもっておられますね。

 久田 戦前は旧満州の満鉄(南満州鉄道)が最大の顧客でした。当時、満鉄といえば、現地政府のようなものですから、相当に深く食い込んでいたんですね。いうまでもなく満鉄の主業務は、鉄道の敷設と兵隊の輸送でしたが、そこに設計製図用品を売っていたわけです。ですから、新駅など満鉄の拠点ができると必ずついていくのが、仁丹と内田洋行といわれていたんです(笑)。

 内田洋行というと文具のイメージが強いのですが、もともとは、より専門性の高い設計製図の分野です。だからCADが出はじめた頃、得意分野だと思って進出すると、どうしても難しい専門性の高いほうに行ってしまうのです。「もっとやさしい分野をやれ」といっても、どんどん狭く深いほうに…(笑)。

 奥田 久田さんが社長に就任された頃は、どんな時代でしたか。

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