オフコンとパソコンの境目から“今”を俯瞰する――第34回

千人回峰(対談連載)

2009/02/16 00:00

久田仁

久田仁

内田洋行 相談役

 1970年代後半、マイコン(いまのパソコン)が世に出はじめた頃、業界紙の記者をしていた私は、なんとかコンピュータを追いかけることができないかと考えていた。そこで相談に乗っていただいたのが、当時、内田洋行で電子計算機事業部を率いていた久田仁さん。実は、BCNのコンセプトは、彼に負うところが非常に大きかったのである。(取材:2008年12月18日、墨田区ウォーターフロントにある久田さんのご自宅にて)

「ある時代の強者は、次の時代で必ずやられるということです」
――創業100年の老舗企業を経営してきた経験から、久田さんはそうビジネス観を語る。
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第34回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

 久田 きょうはまた、どんな話でしたっけ。

 奥田 実はですね、私が薫陶を受けた方々や考え方・行動に共鳴する人たちを1000人選んで、「千人回峰」というタイトルで集大成していこう、と…。

 久田 ほう、「千人切り」ですか。それは大変だ。だいいち、体がもたない(爆笑)。

 奥田 (笑いながら)そっちのほうの話は、別の機会に譲るとして…。
 

地方をくまなく回ればマーケットシェアがつかめる

 奥田 私は1978年から80年までの3年間、全国47都道府県、130社ほどのオフコンディーラーを取材しましたが、このとき物心両面で支援してくださったのが久田さんでした。内田洋行の代理店を取材すれば、他のメーカーやディーラーの取材も自由にしてよいといっていただき、旅費や宿泊費まで負担していただきました。

 久田 いやいや、奥田さんは業界紙の中でもピカイチの優秀な記者だったから、この人に自社の記事を書いてもらいたいと思っていたんですよ。

 奥田 BCNの構想について相談したとき、「地方を回らなければダメだ」と久田さんにいわれました。そして「売る人の数が、ニア・イコールでマーケットシェアになる」と教えられたんです。

 それで全国を回って取材・調査するわけですが、そこで私は、流通に携わる人たちの経営観、お金の回り方、人材の配置などについて知ることができました。そして、オフコンを追いかけているうちに、一方でマイコンが市場に登場します。オフコンよりマイコンのほうが、もっと広い市場を獲得するようになるだろうと思った私は、自分で新聞を発刊しようと考えはじめました。

 久田 BUSINESSコンピュータニュース(現・週刊BCN)のビジネスプランを、自宅まで持ってきて見せてくれましたね。

 奥田 はい。1981年8月のことですが、久田さんから「非常によくできている」と褒められたところまではよかったけれど、「ところで、収支計画は?」と尋ねられて答えに窮したことを今でもよく覚えています(苦笑)。それでも、その年の10月15日、新聞の創刊にこぎつけました。
 

オフコン全盛の時代

 奥田 ところで、内田洋行はオフコンの黎明期からUSACブランドでコンピュータに関わっていますね。

 久田 私にとってのコンピュータはオフコンで燃え尽きた感じで、正直なところパソコンの時代は面白くない(笑)。ただ、80年代初頭にはパソコンが出てきたとはいえ、オフコンもギリギリのところで戦っていました。当時、オフコンは200万円台、これに対してパソコンもワープロ機能とスプレッドシート機能だけで100万円はしましたから、十分勝負になっていたわけですね。ですから、パソコンが発売されて5年ほどは、むしろオフコンの最盛期だったのです。

 奥田 内田洋行がコンピュータ事業に乗り出したのは、いつ頃からでしたか。

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