売上げの半分は海外市場で上げる――第19回

千人回峰(対談連載)

2008/03/31 00:00

牧誠

牧誠

メルコホールディングス 代表取締役社長

実の親は立志伝中の人物

 奥田 結婚したら名古屋に戻るとおっしゃいましたが、どんな経緯があったんですか。

 牧 経緯といってもね。ちょっと複雑で…

 奥田 牧さんの口からは言いにくそうなので、私の知ってる範囲で紹介してみましょうか。牧さんの実の父親は発明家で、島田屋(現:シマダヤ)といううどんメーカーを創業、「栄養玉うどん」などで当てて、東京にも進出、松山善三氏が当人をモデルにした小説を書くなど、一種の立志伝中の人物だった。牧さんは四男で、跡取りのいない本家に養子に出され、親同士の間では、結婚したら名古屋に戻るという約束が交わされていた――と。

 牧 まあそんなところですね。

アンプの設計製造でスタート

 奥田 私、牧さんの行動力の源泉の一つは、実の親を見返してやりたいと思っていたからかな、などと考えたこともありましたが、それはおいて、創業時の話を聞かせてください。1975年5月に「メルコ」を設立なさったわけですが、創業商品はオーディオだったんですね。

 牧 最初は半導体メーカーなど弱電メーカーに就職するつもりだったけど、名古屋には弱電系メーカーはなかったんです。じゃ自分でやるかと、けっこう安易に考えてましたね。

 前の会社でアンプはやってましたから、自宅でアンプの設計製造を開始、私が物を作り、友人が売り歩くという形でスタートしました。立ち上がりは結構順調だったんですが、1年後くらいにぱったり売れなくなりました。

奥田 オーディオ系商品の浮き沈みはかなり激しかったですね。

 牧 調子に乗って作りすぎていたものですから、部屋中在庫の山。仕方なく、トラックにアンプを乗せ、全国の家電店回りをはじめました。お店にいきなり飛び込んで、音を聞いてもらって、置いてもらうという営業です。道のすいている夜中に次の街に向けて移動するというような毎日でした。そんななかで、なぜ売れないんだと自問自答していた。そしたら、お客さんがどんな商品を欲しがっているかをまったく考えず、自己満足で商品を作ったんじゃないか、と気がついたんです。

 その反省に立って作ったのが、78年8月に出した糸ドライブプレーヤー「3533」でした。60-70万円くらいの商品でしたが、一気に数百台の受注が来て、半年分くらいの受注残を抱えるほど。ところが、10か月後に大手メーカーが同じような商品を出してきて、またまた売れなくなってしまって…。

 奥田 技術をパクられたわけ?

 牧 そういうことです。零細企業の悲哀、無力感を感じざるを得ませんでしたね。

P-ROMライターで周辺機器に進出

 奥田 パソコンの周辺機器にはどんな形で進出なさったんですか。

 牧 ある販売店のオーディオ担当者がパソコン売り場に移って、彼から聞いた一言が転機になりました。挨拶がてら訪ねたら、「パソコンは売れるよ。技術者なんだろう、お宅でもやってみたら」と言われたんです。80年、マイコンブームの頃です。

 その頃、私もマイコンに関心を持って、最初はオーディオ商品の検査に使えないかと考えたんです。検査項目は多岐にわたるので、それぞれプログラムを書き、マイコンに記憶させるわけです。一つのプログラムがあがるつど、パソコン店に行って焼き込んでもらってました。プログラムに一か所でもミスがあると、再度焼き込んでもらわないとならない。面倒くさくなって、焼き込む機械を自分で作ってしまったんです。

 奥田 ああ、それで開発したのがP-ROMライターだったんですか。

 牧 81年7月に「RPP-01」を発売しました。これが売れましてねぇ。当時は、オーディオで月商100万円くらいでしたが、P-ROMライターはあっという間に同じくらい売れるようになりました。

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