「ボクがライブドアを再生させる!」と血気盛んな平松庚三社長と対談――第9回

千人回峰(対談連載)

2007/04/09 00:00

平松庚三

平松庚三

ライブドアホールディングス 社長

 平松 そう、MSXの座談会でしたよね。じつは、マスコミに名前がでたのはこれが初めてだったと思います。寝食を忘れて、MSXの立ち上げに取り組んでいた頃です。

 奥田 それから1年たたずにソニーを辞められて、ビックリしました。

 平松 ソニーを辞める理由についても本にはかなり詳しく書きましたが、MSXの挫折が引き金になったことは確かです。

変装してケネディ空港歩く

 奥田 アメリカン・エキスプレス・インターナショナルジャパン(以下アメックス)にはヘッドハントされて移籍したのですか。

 平松 ええ、アメックス自体は保険会社ですが、私に来たのは出版担当ディレクターとして、会員向け雑誌を立ち上げて欲しいということで、悪い話ではないと思いました。

 奥田 ああそうか、平松さんは元々はジャーナリストになりたかったんですね。私の理解している範囲で、平松さんの前半生をまとめてみますと、早稲田大学に入学したあと、ジャーナリストになりたくて、70年に中退、その後はアメリカン大学に留学、朝と夜は読売新聞のワシントン支局で新聞記者として活動、当時支局長だった渡辺恒雄さん(現読売新聞グループ本社代表取締役社長)の知遇を得る。

 大学卒業後は読売に入れると思っていたけれど、採用年齢(26歳)を超えているとの理由で入社できず、渡邊さんがソニーの盛田さんに話したところ、じゃうちに入ってもらうということで、ソニー入社が決まった、と。

 平松 だいたいそんなところです。実は、読売新聞で働いていた時、大変な特落ちをやってしまいましてね。ベトナム戦争中でしたが、北爆を中止するという米政府の発表を見逃してしまったのです。怒鳴る渡辺さんの前で、正座して泣きながら4時間頭を下げてました。

 奥田 そんなことがあったんですか。

 平松 アメックスに入社する時も、忘れられない思い出があります。勤務先のソニーの人に会ったらまずいと考えて、ニューヨークのケネディ空港を変装して歩きました。アメックスに入社するに当たって、最後の詰めにニューヨークに出かけることになったんですが、向こうで1日といっても、日本では3日は休まなければならない。そうすると、ご不幸でもあったんですか、と周りの人が声をかけてくるのに対して、嘘を言わざるを得ない。それに、ニューヨークのケネディ空港といったら、ソニーの人がうようよしている可能性が高い。それで、帽子をかぶり、マスクをして空港内を歩きました(苦笑)。

クビになった日に泥棒に入られた

 奥田 IDGコミュニケーションズジャパンに移ったのはどんないきさつだったんですか。

 平松 ヘッドハンターとして著名な、コーン・フェリー・インターナショナルの橘・フクシマ・咲江さんが、最初は相談に来たんですよ。半年間動いているが、アドバイザーとしてあなたの名前がちょくちょくあがる、誰か、適当な人を知らないかということでした。話しているうちに、グレンは良く知ってると言うと、えーっ!?、私の夫よ、と。

 どんな条件の人間を探しているのかと聞くと、5つのクライテリア(条件)を上げました。IT業界の知識と経験があること、出版業界の知識と経験があること、ゼネラルマネージメントの能力があり、リーダーシップもあること、それにバイリンガルであることということでした。ITという言葉が使われだした時期でしたが、出版は古い体質の業界でしたから、「そんな人間はいないよ」と言いつつ、「あっ、いた!」と思わず大声をあげてました。それは誰かと尋ねられて、ソフトバンクの孫正義さん、アスキーの西和彦さんの名前をあげたら、今度はフクシマさんが「あの二人を引き抜くわけにはいかないわねぇ」って大笑いしてました。

 そして後日、「あなたは私のアサインメントよく分かってたわね」といって、IDGコミュニケーションズジャパンの社長就任を正式に要請してきました。

 奥田 92年9月にIDGの社長に就任したのでしたね。

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