迷うことなく継いだ蔵で日本酒のトップを目指す――第132回

千人回峰(対談連載)

2015/04/02 00:00

吉田 泰之

吉田酒造店 頭・酒母(かしら・しゅぼ) 吉田泰之

構成・文/浅井美江
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2015年03月30日号 vol.1573掲載

 吉田酒造店の杜氏、山本輝幸さんが「ぜひ、彼の話を聞いてやってください」と、紹介していただいた次期社長は、作業用の帽子のツバを後ろに回してかぶった、今どきの若者に見えた。しかし、彼が話し始めたら、最初の印象はいとも簡単に覆された。そこには蔵で育ち、蔵を愛し、自ら仕込んだ酒を手に、国境を越えて日本酒のすばらしさを発信する姿があった。山本杜氏が願う“一歩進んだ酒造り”を実現する担い手がまさに目の前にいた。(本紙主幹・奥田喜久男)

次期社長で杜氏見習いの吉田泰之さんは、「今のポジションが一番おもしろい」と微笑みながらも、利き酒となると、一瞬にして真剣な顔つきに変わるのはさすがだ
2015.2.12/石川県白山市 吉田酒造店の酒造工場にて
 

写真1~4 現杜氏の山本輝幸さんの指導を受けながら、吉田さんは蔵の責任者への道を一歩一歩進んでいく
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第132回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

自分で造った酒を自分で売るのがおもしろい

奥田 杜氏の山本さんに次期社長とうかがいましたが、小さい頃から、蔵を継ごうと決めておられたのですか。

吉田 はい。迷いもなく。子どもの頃からよく蔵に行って、蔵人さんに遊んでもらったり、肩たたきをしておこづかいをもらったりしてました。この環境が本当に好きでした。

奥田 あなたで何代目になるのですか。

吉田 6代目です。

奥田 東京農大の醸造科に進んで、その後どうされたのでしょう。

吉田 数年間、ほかの蔵で修業をしてから、イギリスに1年間留学しました。で、帰国して、実家に戻って酒造りをしながら、夏場はアメリカにある日本酒販売の会社に、長期でインターンに入ったり、イギリスやアジアなど海外を回ったり……。

奥田 イギリスは語学留学ですか。

吉田 それもありますが、日本酒販売会社の“World Sake Imports”で、インターンとして日本酒の営業をやっていました。

奥田 イギリスの人たちって、日本酒を呑まれるんですか。

吉田 呑みますね。コンクールでも何年か前に日本酒部門ができました。いろんな蔵元さんが出品しておられます。

奥田 海外に留学して、どうでしたか。得ることはありましたか。

吉田 それまで日本の中だけにいた頃とは、違う視点で物事を見ることができました。日本から世界を見るのではなく、世界から日本を見ることができたというか……。例えば、ヨーロッパでは古いものを直してずっと大切に使うのに、日本は安いものを買って、すぐ捨てる。なんかもったいないなあ、よくないなあとか。自分も日本にいた頃は、100円ショップってありがたいなあって思ってたんですけど(苦笑)。

奥田 今も海外へはよく行かれるんですか。

吉田 いえ。このところは減ってきています。夏場もここ(吉田酒造店)にいて、お酒全体のレベルアップとかブランディングを考えたり……。

奥田 だんだん経営者にシフトしてきている。

吉田 そうですね。今いるのが、一番おもしろいポジションかなと。酒造りも自分でできて、それを自分で営業して、と全部自分で形にしてつなげていけるので。全体のいいところを、しっかり吸収できているというか。最初はそこまで考えてなかったんですが、いざやり出したら、この業界でトップに立ちたいと思うようになりましたね。
 

「5時やぞ、5時やぞ」が和を醸し出すキーワード

奥田 先ほど山本杜氏の話を聞いていて、あなたはいい杜氏さんについてるな、とすごく思いました。

吉田 はい。ラッキーだと思っています。修業のために、いろんな蔵へ行ったんですけど、蔵のなかに派閥があって、「あっちの仕事は手伝わなくてもいい」と言われたこともあったりして、つらかったです。酒造りが始まると、半年という長い期間、共同生活で仕事も食事も寝るのも一緒なので、みんなストレスがたまってくるんです。

奥田 それは厳しいなあ。

吉田 いつもカレンダーを見て、終わるのまだかなあって。年を越して1月くらいになると、やっと半分来たなと。でも、年が明けるとまた一段と忙しくなるんで、みんなほんとに機嫌が悪くて、仕事のこと以外、誰もしゃべらなくなったりします。だから、吉田酒造へ帰ってきた時に、なんてうちは居心地がいいんだろうと、つくづく思いました。山本杜氏の好きな『和醸良酒』が、ほんとにそうなってるなと。

奥田 山本杜氏はどういうふうに和づくりをしておられますか。

吉田 蔵は夕方5時で一応終わりなんですけど、その後、休憩室にみんな好きなものを持ち寄って、ビールを飲んだりワインを飲んだりします。その場で山本杜氏が、すごくいい感じにカツを入れてくれるんです。ねちねちと説教したりするのではなくて、カツを入れてもらってスッキリして、わあって飲んで。

奥田 それ、いいなあ。

吉田 日本酒の輸出の仕事が忙しかった時期に、私一人が蔵を抜けてその仕事をしていたことがあったんですけど、いつも山本杜氏に言われたのは、「5時になったら来いよ」と。仕事以外のその時間が一番大切なんだと、呪文のように「5時やぞ、5時やぞ」って。あと、蔵に入ったばかりの頃は、社長の息子だということで、みんなとなんとなく距離感があったんですけど、そこも山本杜氏が間に入ってくれて、「5時やぞ、5時やぞ」って。

奥田 蔵人さんたちとつないでくれたんですね。

吉田 そうです。山本杜氏は独特の柔らかさというか、愛嬌があるんです。でもそれだけじゃなくて、蔵の誰よりも頑張っておられる。僕たちが休みをもらってる時も、杜氏は半年間、全然休まない。去年、お孫さんが生まれた時も酒造りが終わるまで帰らなかった。それはすごいなと思います。そして、どんな無理なお願いしても、いやな顔をせず「おお、やるかあ!」と言ってくれる。すごく気持ちのいい人です。

奥田 びんびん伝わってきますねえ……。

吉田 でも、怒るとすごく怖いです。みんなもそれを知ってるので、何かあると杜氏に聞かずに、僕のところへやってくる。「直接、杜氏に聞けやあ」って言うんですけどね(笑)。

奥田 人の和こそが良酒を生み出すということが、お話をうかがって、なるほどと腑に落ちました。



こぼれ話


 山本輝幸杜氏の故郷は前号でご紹介した高爪山を越えた北側の門前町で、その先に輪島がある。杜氏は、春先には家に帰って田植えをして、秋に稲穂を刈り取ってから蔵入りをする。この生活の繰り返しを次期蔵元杜氏の吉田泰之さんが生まれる以前から始め、1986年から吉田さんの成長を見守り続けている。

 山本さんとの対談場所は、蔵の中の、4人がやっと入れるほど広さの応接室だ。対談は順調に進んで充実した高揚感を覚え、まさに終えようとした時、「次期蔵元の話も聞いてやってください」と鋭い声で提案があった。その顔が真剣そのものなので気迫にも押され、今回、初めての3回連載となりました。“?啄同時(そったくどうじ)”という禅の言葉がある。まさにその行為そのもので、厳しくも深い師弟愛を感じた。よし、あらためて能登半島を旅してみよう。

Profile

吉田 泰之

(よしだ やすゆき) 1986年、石川県白山市生まれ。東京農業大学応用生物科学部醸造科学科卒業。吉田酒造店の次期社長。大学を卒業した後、他の蔵元で修業して吉田酒造店に戻り、現在は酒造りから営業まで、幅広く勉強中。英国へ留学した時に養われた「世界から日本を見る」目線を生かし、世界市場を視野に入れた日本酒の新しいスタイルの確立を目指している。